若かったなぁ…(遠い目)

今週のお題の「20歳」を見て、「自分の馬鹿っぷりをこの場を借りて反省するいい機会だ」と思ったのでその話をしていきたい。

お品書き

  1. 敵がいたから自分がいた
  2. 抽象的な憧れのみの前進
  3. だが、私は後悔などない

  • バカバカしい大学生活を変えたビジネスコンテスト

今もそうだが、僕は僕の大学の生徒が嫌いだ。機関銃や戦車でも渡されようもんならつかいかねないほどに嫌いだ。

…もっともその購入ルートも購入資金もないからやらないけど。

1年目はバイトに逃げることで自らを正当化していたが、一人暮らしをし初めてからというもの、僕は大学と直接向き合う生活に苦痛を感じていた。
新しく始めたバイトは高卒で上京してきた人ばかりでそちらの人達の方が立派に働く姿を見て、「自分を含めたこの吹き溜まりの空間はなんのためにあるのだろうか?」と悶々としていた。

私が真面目にやってもそれをウザイとしか思えない生徒ばかりで、私が中国人の教授から褒められている時の周囲の釈然としない顔を見てこの学校にいることのうんざり感が頂点に達していた。

そんなある日、高名な大学の学生団体が主催する合宿の応募書類が来ていた。

私のような未熟者が合格するわけないだろうと、思いながらも自分が低い身分であることを戒めるために応募した。落とされてくれたほうが私としては都合が良かったのだが、運悪く合格してしまった。
その後、私は周囲の友人に「私ごときが呼ばれた。絶対、いじめられる枠だから行きたくねー」と言ったが「見返してやれ」と言われて渋々合宿に行った。

私の当時のコンプレックスが具現化したような感じでみんな博識で頭が柔らかい人ばかりだった。合宿を仕切る連中も立派な人が多かった。だから、途中までは僕の予想したとおりの世界が広がっていた。

ところが、学歴も年齢も上の女を口で負かしてしまうことがあり、それを契機に「なんだ、大したこと無いじゃん。」と思うようになった。

この事がmixi日記やブログを熱心に書かせる転換点となり、よく勉強し、よくモノを書くようになった。

  • すごい人になりたい

大したことない人を見た一方ですごい人も見つけた。

だから、すごい人高学歴に認められたくて頑張った。(※大したことない高学歴を嘲笑うために頑張ったという言い方もできるけど。)

少なくとも二十歳の間は、このコンプレックスを開き直りに活用して「俺よりもいい大学行ってる奴は俺よりいい文章出してこいや!このチンカス野郎め!」とmixi日記でギャーギャー言ってたのをよく覚えてます。

バイトして本を読んだり、資格の勉強したりしながら、そのギャーギャー言う日記を書いていたのをよく覚えてます。

今思うとみっともない事ばかりが記事になってると思うけど、時々面白いものも書いていて、それを自分よりも年上であったり、高学歴な人に見出されるとすごく嬉しかったのを覚えている。(今思うとくだらないプライドなんだけどね。)

バイトの方では給料でDVDプレーヤー買ったり、デジカメ買ったりと、貯金はほとんどせずにいろいろなことをやった。こっちは後々の財産になることをたくさんやってる。

たくさんの設備を用意しておいたおかげで何かやりたいと思ったときに動ける。

実際に動いていたから、無駄になってない蓄積も多い。そりゃ、年上の友人からは「もっとこうしたほうが魅力的な写真なり文なりが作れる」と言われたが、それは当時の僕には理解できる範囲とそうでないものがあった。

そりゃ、今もそうだけど、人間というのはその時その時の全力までしかいかないようにできている。

  • 童は童のごとく考える

前に「スターストリングスより」という同人誌を語ったときに【ウルトラマンになりたい子供は子供なりにマジなんだ】という話をした。それは当時の僕も20歳なりにマジになってやっていたことなんだと思う。

学歴コンプレックスを超えられない壁と解釈して落胆するよりも、壁を片っ端から硬いものでつついてやるほうがずっと根性がある行動だと考えたらしい。

これはつい最近まで続いていたが、ついに無関心に「僕はそのスポーツは苦手なんで」ぐらいのところで収まるようになった。学歴でモノを言いたい奴の矛盾は指摘するけど、自分からそれを題材にもなってないのにわざわざ持ち出すこともないと思えてきた。

正直な話、くだらないと思えてきたのだ。人間が定めた基準である以上、例外や想定外が必ず出る。それは目安にはなるかもしれないけど、絶対的価値じゃない。むしろ、その場その場で立ち位置ごとのメリットはある。

まず、大学に行ってる時点で設備が湯水のように使える。この時点で勉強したいことが明確な人はどこの大学に行ってもいい。(特に文系はそうだね)
次に、大学の偏差値だが…これは人脈の構築しやすさだろうね。今度記事にするつもりだが、これからは役人と商社マンになりたい人以外はどこの大学行っても一緒です。

人脈も教えもネットや図書館を通じて機会が無限大に増えた。その目的を明確にすることの方が重要であって、学歴なんてそれ以外はどうでもいいのかなぁ…と。

この事に気づく前段階が20歳だったのだが、これがなかった。当時に色々やってきたから今日があると思うので、人から「黒歴史」だの「大人になればわかる」だのと高飛車な事を言われても「てめーに何がわかるの?」といなしておけばいい。

わかってることがあったとしても、年の功ぐらいしか振りかざせない卑怯者なんぞ相手にする必要がない。

「正しさ」は自分で決めることで決まる。多数決の要領、歴史的観点で「正しいとされること」を誰かに言われたとしても、それは絶対じゃない。長い歴史で変わることもあるし、人間がやっていることである以上ご都合主義・合理性によって作られている可能性も想定できる。

20歳の僕はその答えの切れ端をつかんでいたけど、今の僕は明文化して説明できるようになった。もう少し歳をとれば、どうなるか…。

こういうイノベーションを楽しんでいくと人生というのは意外と楽しい。それを「自分好きなナルシスト」と言う人もいるが、どっちも正しい。問題は自分の中でどっちの正しさを自分が優先するかだ。

そこが出来る人間は人から何か言われたくらいじゃ折れたりしない。

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これが「目」で語る戦いだ
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