ヨーロッパ人はバカンスで「何」をするのか?

昔から気になっていた事だが、大の大人が6週間も休みをもらって何をするのか?

そりゃ、「疲れを取りに行く」のが常識なのですけど、バカンスというと日本人からすると「遊んでる」ようにしか思えない。…だけど、実はバカンスは遊ぶだけじゃないんです。

お品書き

  1. 日本人は休みですらも「忙しすぎる」から疲れるんだ!!
  2. 全国区のサッカー部のコーチがやったユニークな体育の授業
  3. 日本「フリーズ」理論〜再起動or強制終了のススメ〜

  • 「休むのも仕事のうち」とか言うなら、日本人にもバカンスをよこせ!

日本人が旅行に行くと「旅行に来たんだからのんびりしよう」派と「せっかく来たんだから全部見よう」派の二種類に分かれる。後者の人がゴリ押しして勝つので、旅行とは疲れるイメージがあるのが日本人らしさだと私は思ってる。(※我が家だけであることを祈りたい。)

僕の最近のマイブームに「デュラン・れい子」という作家がいる。スウェーデン人の夫とバカンスを過ごした際に、夫は5時間の日光浴の間、トイレ以外はぴくりとも動かず考えにふけていた姿を見て「なんでポケーとしていられるのだろうか?」と思ったそうな。

他の友人にバカンスについて聞いたところ、こんな答えが返ってきたという。
「ヴァカンスは最低三週間必要。最初の一週間で疲れを取り、二週間目は今を考え、三週間目はこれからのエネルギーを貯めるため」(出典・「一度も植民地になったことがない日本」)

…ああ、イメトレなのか。それなら、僕もやったことがあるぞ!!

  • 全国区のサッカー部は体育でイメージトレーニングをやる。

僕には高校において2つの母校がある。1つは神戸の強豪サッカー部がある学校で、もう一つは横浜のとある私学。僕がその先生の授業で忘れられないものが、運動場が使えない日に体育館(の下にある筋トレ室)でやった授業。

寝っ転がって、目をつぶって、「今から言ったものをイメージしろ」と言われる。
明日の自分、一か月後の自分、半年後の自分、1年後の自分、5年後の自分、10年後の自分…。
それぞれに1分・2分かけて想像力を膨らませて最後はパッと目を開ける。

授業のうちの最後の10分でこのイメトレをやった。後にも先にも人に教わってイメトレをやったのはこれ1回だけ。当時はすごく感動して、その後の勉強・部活のやる気につながった。(この年が一番、模試の成績も、部活での貢献もできてて、自分ではベストな1年だと思った。)

しかし、冷静に考えると「そんなイメージが当たるわけないだろう。情報とは常に非対称なんだから」とも思う。そして、先のことを考えるようにしているだけで「考えがあってすごい」と僕は当たり前だと思っていることが人に言われることはよくある。(とんでもないバカに言われるのではなく、誰もが知ってる大学の学生さんやら独立してコンサルタントをやってるおじさんに言われる。)

すごいことでもなんでもない。自分への「やる気付け」として「これを突き詰めていくとこんなことができるのではないか」と仮想する。仮想のほとんどは間違っていて、軌道修正していくが、間違っていたことだけは学べる。どんどんそれを繰り返していくことで、賢くなる。

ヨーロッパ人のヴァカンスとは日本で言うところの「禅」や「悟り」の文化なのかもしれない

人種は違えど、人間である以上、この矛盾した社会に生きている以上、悩まずには居られない。その悩みに疲れているから、1週間目で悩みを忘れる。2週間目は整理する。(悩みだと思っていたものは疲れでそう見えただけで、逆に悩んでいないものが本当の「悩み」である可能性はありえる。)3週間目は改めて手を考えて、仕事場・家庭・街で「こうしよう」と決めて帰る。

昔の人は悩むと座禅を組みに行ったという。(著名人で言えば上杉謙信と二宮金次郎が有名。)
最近の人で言えば、悩みあぐねたとき、中曽根元総理は座禅を組んで考えていたなんて話を聞く。

「無心」(仏教用語で「妄念から離れた心」)になる事で、己を見直そうという精神は東西共に持ち合わせている。問題は今の日本はヴァカンスに行くほど暇でもないし、禅寺に入り込むには敷居が高すぎることだ。

…さぁ、せっかく掴んだヴァカンスの秘密をどう生かそうか。

  • 仕切り直しのススメ

古いものをいたずらに捨て、経済重視になっても、日本には「お正月」と「お盆」だけは残っている。*1

最近は正月・お盆に商売をやる業種もあるけど、それはもう仕方無い。…本音では「お客様のために」と口走る経営者・管理職各位がお店をやったらいいと思うのだが、それはやらない。(みんながこないときに商売してもコストがかさむだけなのに、馬鹿な経営者が社員を私物化したがって店を開くのは「罪悪」の領域じゃないか?)

小売や医療・警察などはともかくとして、休める業種の人には「長すぎる休暇」を休みに有給を使ってでも作って欲しい。

根拠は2つある。1つは先ほど「問題点を整理するための休み」と言ったが、これは棋士「羽生善治」さんの「困ったとき・悩んだ時は整理しろ」という習慣に習っていっている。「休むのも仕事のうち」の意味を考えるなら、この「整理」という機能は外せない要素ではないだろうか?

休みを取りたいと言えば、ブーブーいう上司もいるかもしれない。だが、そういう人はどっかでブーブー言うのだから、自分が「良いと思う方」を選択したほうがいい。効率良く仕事をこなせる自信があれば、どんどん休むべきだし、頭よりも労働だと思えば、それをやったらいい。どっちにしてもブーブー言う人は言うのだから、そんな人の機嫌取りなどするだけ無駄というものだ。

2つ目は、将棋ではなく麻雀の勝負「師桜井章一」さんいわく「現代人は力が入りすぎてる」という。これを見てる方、親指の形がそっているか一度画面から目を離して確認してみてください。そってる人は「力みすぎ」の人です。

結果を追いすぎるあまり、神経質になって体の動きが不自然になってるという。(歩いているときに足を擦るようにして居たり、過剰に潔癖性だったり…)

「休」をという漢字分解すると「木の影で休む」という体の事が中心になるのですが、英語の「休む」に当たるrestには「停止」という意味も含まれるし、楽譜に於ける休符(無音)の状態も指す。

つまり「止まる」事を欧米人は休むことだと考えてる。

あるいは「開放」という意味もある。バカンスは「仕事を忘れられる程の長い休み」ですから、まさに苦役「開放された」事になる。そして、バカンスを通じて疲労からも開放され、悩みから開放されるためにも体を静止させる。

先ほど、桜井章一さんの話で「力んだ人は指がそり、歩き方が不自然だ」と言ったが、これは人間だけに限らない。人間よりも働き者なコンピューターですら、電源を長い間かけ続けると熱がたまって、処理が遅くなり・さらに処理をいそいでうるさい音を鳴らす。

日本人はこの「音がうるさいだけで生産力の落ちたコンピューター」と同じようになっているのではないか?

そもそも、機械でも休むときは休むし、昔の人だって考えにふけることがあった。考えにふけもせず、労働ロボットのように働くために体のみを休めることばかり考える休息が効率を上げる上で、有意義なのだろうか?

そりゃ、休めない事情は個々人にあるのはわかる。だが、無心になって考えたり、ヨガなどの体操・および運動で体の力を抜いたり…つまり一度電源を切るために頭を仕事のことから開放してあげるような「意識」は誰にだってできるのではないか?

日本人も盆・正月・GWは休むようにするのがベストだと思うが、それが叶わない以上は「仕事との距離感を大事にする」欧州人の「意識」だけでも学んでみてはいかがでしょうか?

*1:中内功とかいう馬鹿な経営者が無責任に「お客様のために」などと言って元旦に店を開けたせいでお正月に休む文化を奪ったのは、日本の経済史に眩しく輝く汚点ですけどね。

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これが「目」で語る戦いだ
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