【感想と考察】映画「フリクリ プログレ」はいいぞ!良かったからガッツリ語るぞ!!

2018年10月2日

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というわけで、フリクリプログレを見てきた。
平均年齢40歳のガイナックスファンとこじらせたオタクしかいないTOHOシネマズで見てきたよ。

この作品…古参のファンの間では賛否両論なんだけど…僕は「賛成」派ね。

「わからん」
「演劇風味の脚本が鼻につく」
「続編なのに、続編として失敗してる」
みたいなご意見があるけど、ぼくは「プログレというのだから、これでいいんじゃないか?」という感じで見た。

 

あらすじとかストーリーとかそういう話よりも、まずは観念的なところから。

そもそも、フリクリ自体がオルタナティブだから、オルタナは存在しない

なにか考え事をする時には意味のある言葉を考えるところからやるといい。

まず、今回はフリクリオルタナと、フリクリプログレが上映されてる。
音楽詳しくないので調べたところ、オルタナティブは「二者択一、代案、代替品」という意味。
オルタナティブ・ロックという意味の場合は「ポップミュージック(商業ロック)とは相反する音楽」という意味になる。

しかし、FLCL自体が商業的なガイナックス作品(特にエヴァや庵野秀明)に対するオルタナティブ・ロックの位置づけで、時代にとらわれず、アングラなものを追いかけた作品。
オルタナのオルタナになっちゃうから、フリクリオルタナは正直失敗だと思う人が多いし、私もその通りだと思う。

かく言う私も「ついていけない」と思う。
人によっては「虚無」とまで言い放った人もいるのもわかる。

一方、FLCLのプログレは存在する。
プログレの意味は「進歩的な、進行形の、連続的な」という意味。
プログレッシブ・ロックの場合は「シングル志向のロックからアルバム志向のロックに」という意味が込められてる。

これ、フリクリプログレはまさにそういう作品。
・進歩したアニメーションの技術を色々取り入れて
・前作の続編っぽい位置づけを取って
・「作品後半で今までの伏線をガッツリ回収して前半では意味がわからないように作られる」というアルバム志向な作品作り
がとてもプログレな感じがした。

この辺を理解してない人が前半の台詞回しや展開を見て
「こんな頭の悪いことばっかり言う人が出てくるのはFLCLじゃないわ」
と言うのはすげーわかるし、僕も「深夜アニメで見ていたら娘に包丁突きつけておかんが訳わかんないこといい出した時点で切ってるだろうなぁ…」と正直思った。

実際、ガイナックスファンというのは、1話から面白い作品こそ面白いと思ってる部分がある。
だから、前半がつまんない作品は評価を下げてしまいがち。
というのも、ガイナックス作品の1話はどれをみてもかなり面白く、早い段階で視聴者の心をつかむのがうまいから…フリクリの劇場版をわざわざ見に来るような人はツカミから面白い作品を期待していただろう。
初代社長である岡田斗司夫も「1話が面白いのは大事」とニコ生で話していたので…1話どころか2話3話見てもしばらく面白くならないFLCLは昔からのファンからすれば、苦痛極まりないかな…と。

 

加えて、エヴァだろうが、グレンラガンだろうが、アベノ橋魔法☆商店街だろうが…1話ごとの話が面白く、独立性も高くて「シングル志向の作品」として優秀。
そこに「全部見ないと面白さが伝わってこないアルバム志向のフリクリ」という作風をファンが望んでるかと言うと…既存のファンは苦手かも。

さらに、90年代後半〜00年代にかけてのアニメ演出の結晶がフリクリなので…新しい演出を持ってきても、それがかつての姿を超えられないと劣って見える。
深夜アニメ全盛の、ストーリーも凝ったものが多かった時代を代表する作品だけにちょっと新しくしたぐらいじゃ既存のファンは納得しない人も多いだろう。

この辺が評価が別れている理由。

一方で、ぼくはこの論争を見ていて言いたい。
「いやいや、作品にプログレと書いてある時点で、昔すごかった演出や構成そのままではなかっただろう。」
「散々、深読みするアニメを見てきた年代の人達なんだから、そこはがんばって深読みして、面白い部分をきちっと見つけようよ。」
が、あんまり同じこと言ってるやつがいない。

フリクリを超えに行く作品としてではなく、見た人が新しい演出や本家をわかりやすく再解釈してくれている部分を楽しむ作品としてすごくいいんだけどねぇ…この作品

 

ラハルとジンユに分裂した理由こそ、わかりやすさ

今作ではFLCLのハルハラ・ハル子という一人のキャラが、ラハルとジンユという二人に分裂してる。

ラハルは本家に出てくるハルハラ・ハル子のように目的のためには手段を選ばない自由な人。
一方で、ジンユはラハルの自由奔放さとは打って変わって、制約する存在。

この作品はありとあらゆる因子が「自由と制約」に基づいて作られているため、分裂したことそれ自体が補足説明の側面を持つ。
同時に、「制約は自由が行き過ぎた時になされる」という原理があるから、基本的には自由の方が強い。(実際問題、ラハルとジンユもそういう関係だし)

同時に、圧倒的な自由は他人を不自由にして成り立つことことも多い。
フリクリの場合だと、「意味もなく星を真っ平らにしている巨大なアイロン」が出てくるけど…人が住んでいようが、ビルが立っていようが真っ平らにする…これこそ究極的に自由な振る舞いだよね?

もうちょっと観念的な言い方をすると、フリクリって思春期の「少年少女たちの脳内に湧き立った強い感情(NO)」を力の源にしてるけど…感情って他人の決めたことに関係なく湧き上がってくるもの「自由」なものだよね?

他にも、フリクリの世界観ではギターが武器になってたり、フリクリオルタナでは「叫べ、17歳!!」という言い回しが出てくるが、音って他人がうるさかろうが、誰かが決めようが響き渡るものだから…基本的には自由な存在だよね?

そこがつかめるかどうかは、この作品を楽しめるかどうかに関わってくる。

同時に、「制約がいらない」という話ではないことも、抑えておきたい
例えば、フリクリ本家でもグレンラガンにも入っている力が溢れ出して吐いてしまうシーン」があるが…これこそ制約の象徴(メタファ)されたシーン。


自由の力を爆発させるのは強い意思や法則を理解したことによる知恵。
しかしそれらは無限ではなく、むしろ制約を理解していないと、自由にもなれない。

この法則で行くと、ハル子とジンユが喧嘩したり仲良くなったりするシーンも説明がつく。
ハル子とジンユが仲がいい時は、自由の力を出すための制約が二人の中でできてて、逆に相反しあってる時にはハル子にもジンユにも無理が生じてる。

自分のやりたいことがあっても、そのために何かを我慢したり、自分自身の制約しないと生きていけない部分を自覚したりしないと達成なんかできない。
よしんば達成しても…というところまで描いている深いアニメとしてみてもらうと、けっこう面白い。

突き抜ける自由こそが魅力的な作品である一方、均衡の話であり、本当の自由に目覚める作品であるということも抑えておきたい。

 

ヒドミとかいう2018年の碇シンジ

今作の主人公のヒドミはヘッドホンをしてる。
ヘッドホンにも意味があって、「他人の言葉を聞かない」「自分の聞きたいものしか聞かない(自分の世界に閉じこもってる)」の2つの意味がある。
自由と制約」という今作の中に散りばめられたメタファーとして説明するならヘッドホンは「他人からの制約は受けたくないが、自分の世界の中では自由にいたい(自由を押し付けるのも嫌だ)」というスタンスになる。

ごめん、これじゃなかった。
シンジくんも自分の世界以外は基本他人行儀だけど、今回は登場もしないから彼のことはいいや。

フリクリプログレはこっち。
この子がヒドミね。

表面上の性格はシンジくんと違ってウジウジさえしてないが、本質的にはシンジくんに近いキャラ。
ビジュアル的には「オタサーの姫」っぽい格好してるけど…まぁ、そこは…うん。

で、ストーリー中盤で、性格が豹変する。
この時に、話が通じずに自分の世界以外目に入らない子どもになってる。
これがヒドミのヘッドホンとシンジくんのイヤホンをつなぐ補助線になってる。

ヘッドホン自体は自分への制約、他人の自由を押し売りを拒絶することの象徴だったが、話が進むに連れて「自分の世界を持ってるけど、声高に叫んでまで表現できない」という意味も帯びてくる。

冷静に考えて、シンジくんってヘタレじゃなかったらモテキャラなんだよ?
女子力高くて、世界トップクラスのロボット乗りのヒーローで、楽器できて、大人びてて…でも、そういうところを表に出したり、自己正当化しないのが彼の欠点なわけ。
自己正当化とかエゴは欠点と言われがち。しかし、ある程度表に出せないと逆に出し方がヘタで衝突する形でしか出せないから…表現した時にヘタレか駄々っ子になる。
エゴの表現がうまい人のエゴは喜ばれたり、エゴとも思われないが…それは自由と制約を理解して意思表示できない人には難しい。

TV版エヴァはエゴで心がすれ違う話を描いてが、劇場版はミサトさんがフリクリオルタナのハルコよろしく「行きなさい。誰かのためじゃない。あなた自身の願いのために」と言ってシンジくんがエヴァに乗って後先考えず力を開放するのを応援してる。(その後どうなったかはQを見てね)

FLCLってヘタレでも駄々っ子でも欲しいもののためなら叫んで、感情を出してつかみ取る作品だから…表現は正反対だけど、言ってることはエヴァや他のガイナックス作品とほぼ同じ。
そういう意味ではFLCL自体がエヴァのオルタナティブだから、オルタナなんて最初からなかったわけで…

フリクリが他の作品と違うのは感情を吐き出したらおしまいではなく、むしろ感情を吐き出してもそれが叶わなかったり、何かを手に入れてもそれを自分が受け止めきれずに手放してしまったり、それでも感情を吐き出したことでなにか変わることの大切さを描いている。
しかも、そのプロセスをほとんど説明しないで、それぞれのセリフやパーツの中に内包(メタファライズ)して、説明はしていないけど、パーツに込められた意味を考えていく面白さでできてる。

フリクリプログレは、この「説明されてないけど、散りばめられてる面白さ」が詰まってるから正当な後継作品であり、何よりフリクリ好きな人は散りばめられてるパーツの意味を理解できてくると素晴らしい

 

わかんなかった人のために説明すると
「エヴァで同じような表現あったし、この考え方で行くと、フリクリプログレの作中で起こってることはおおよそ飲み干せるよ」
と言いたい。

ちなみに、あるシーンで攻撃としてお餅が出てきた理由とか、別の女の子が持ってたもの「Noのパワーを逆に転換する理由」もこの理論で説明できる。
もろにネタバレになっちゃうから言わないけど、「自由と制約」で考えたらおおよそ説明できるので、もう一回見る時には意識して見てどうぞ。

 

議論が割れている部分はどう咀嚼すべきか

僕は面白かったと思う半面、今作には3つの弱点あり、そこが論争を呼んでいる。
もし、フリクリプログレを面白いと感じているのに「やっぱり本家FLCLの方が面白いし、どう考えても本家の続編がこれだというのは、不足に感じる」と思う人がいたらこの辺のことが言いたいのだろう。

1つは、メタファライズされたものを色んな所に持ち込みすぎて、説明過多なところ。
FLCL本家でやってたことに近い形を取っている一方で、フリクリプログレはメタファ自体の面白さに偏ってしまった。

FLCL本来の面白さは、意味がわかることではなく、むしろ意味がわからないことをノリやリズムで押し切ってしまう面白さなので、その勢いが足りなかったと感じてしまう人はいたと思う。
FLCLの鶴巻和哉監督本人が手がけていたら、その要素は維持できたかもしれない。しかしながら、他人が作品を作る以上、咀嚼・説明する過程で、表現の意味が矮小化してしまった感じは否めない

表現や体験は他人に説明しようとする過程で、要点や言葉尻以上の部分が表現できなくなっていく。

ある種の伝言ゲームみたいなものだと考えてもらったらいいかな?
その時感じたことややったことを全部説明するのは難しいし、聞く方も大変だから要点だけが残っていく。
あるいは、言い回しとして伝わりやすくするために都合の悪い情報、複雑な話は省かれてしまう。

これは本人の中でも起きること。
誰かと恋に落ちても、好きだった感情すべてをずっと覚えておくことはできない。
思い出は都合のいいとこだけ残ったり、逆にその場の空気だからこそ言えたこと・やれたことを整理できず、言葉にもできず忘れてしまうことがある。

 

FLCLから20年近く経ってからの続編だけに、どうしても「違う人間が作ったことによる情報の再整理と忘却」が生じてしまうため、そのせいで小さくまとまったように見える人は多かったと思う。
このことが逆にわかりやすくて、FLCL本家への理解度をあげてくれるいい副教材になっててぼくは見終わったあとに「やった!プログレ見て本家への理解が深まったし、現代風のアニメでフリクリが見れたぞ!!一粒で二度おいしい!!」と思えたぼくのような人はレアケース。むしろ、面白さが別の人間によって切り取られて小さくまとまったように見えた人も多かった。

この辺は好みの問題だけどね。

 

2つ目は、脚本家の演劇職が強すぎたこと。

ただ、脚本家が今まで演劇の脚本が中心でアニメの脚本をほとんどしてこなかった人なので、演劇色が強くなってしまったことが、悪い意味での既視感と元ネタとの乖離した部分を作ってしまった。

悪い意味での既視感というのは、グレンラガンやキルラキルで有名な中島かずきさんね。
この人もゴリッゴリに演劇っぽいことをしたがる人であり、両作品の監督はFLCLにも参加している今石洋之監督だから、
「現代的で、演劇的で、FLCL要素があるアニメがみたいならキルラキルやグレンラガンでいいんじゃね?」
という身も蓋もないことを思ってしまう。似ている演出がちょいちょいあるからなおさら。

FLCLと乖離した部分としては、
演劇的なシーンのせいで陽気すぎてしまうというか、
長台詞や芝居がかった言い回しが多くなっているというか、
それがアニメとして斬新な方向に向かないこともあいまって別作品の雰囲気を帯びたシーンがちらほら。

 

ちなみに、FLCLやエヴァンゲリオン、トップをねらえ2!などの脚本家は榎戸洋司というゴリゴリにアニメ作品を中心に活動する脚本家。
その中でも、庵野秀明や幾原邦彦といっためんどくさーい作品を作るのが大好きな監督たちから引っ張りだこの「めんどくさい監督達の作品を見られるレベルに落とし込んでくれる」ありがたい脚本家…それが榎戸洋司

だから…「榎戸洋司に劣る」「脚本が…」という人が多いのはしょうがないし、正しいし、同時に誰がやっても劣ると言われただろう。
ただ、演劇色が強いどころか、はじめてのアニメがフリクリの劇場版という人に脚本やらせなくても…とは思うから、ここについては僕もモヤモヤしてて、ファンの気持ちはわかる。

 

最後はアニメーション上の演出・作画手法。
FLCLのアニメの魅力ってヌルヌル動くことよりもカクカク動くことや、部分的に止めることで面白くなるアニメーションが多い。(専門的なことではなく、見ている側の感想ね。)

例えば、ハル子がギターを持って戦ってるシーンで、カメラワークがハル子の周りをグルっと回ってみたり、
例えば、6話の戦闘シーンの中で大量の煙が吹き戻される直前に風向きが変わって、止まったり。
なめらかに現実通り動かないことでアニメならではの面白さ、動き以上の躍動感が出ている部分が面白い。

FLCL本家のアニメーションをリスペクトしたと思われるシーンはちらほらある。
マンガの演出だったり、ミサイルに追いかけられながら避けるシーンとか…リスペクトは感じる。

ただ、本家と同じまたは本家のいい部分を受け継ぐとまでは行かなくて物足りなく感じた部分もちらほら。

 

もちろん、映画版のほうがいい部分もある。
画風を細かく変えてその都度実験的な魅力を出したり、
ヒドミやアイ、井出くんの表情が繊細に描き分けられてたり、
変身シーンでワクワクしたり…。
色々と本家とは違う素晴らしさもある。

同時に、そこが「プログレ」の「プログレ」たる所だね。
進歩するってことはそのままじゃないから魅力の一部がなくなって、別の魅力が付け加えられる。
それを楽しめるかどうかが、ファンの間で差がついてくるところ。
意外にも楽しめている人が少なかったから「こうやって見ればもっと面白いよ」という意味合いでこの記事を書いている。

本家の方が素晴らしかったり、今見ても「説明しきれない魅力があるからこればっかりは見てもらわないとわからない」「今なお色褪せない」という作品でもあるから気持ちはわからなくもないけどさ。(検証のためにちょっと見て改めて偉大さを痛感した)

だから、フリクリの話をするなら両方のことを言いたいんだよ。
「本家は誰がやっても超えられないほど面白い」
「プログレッシブにアレンジしても、フリクリは前衛的で革新的で新しい面白さの中にフリクリがあるんだ」
と。

だから、フリクリ語るのは難しいんだよ。
そして、作る方も当時アニメに関わっていた人間ほど苦心していて、その苦心の声が声優のブログやツイートに出てる。

ファンとしては面白い・つまんないでしか評価しようがないけど、いい部分があって、昔の作品を面白く見られるような切り口も提示されてるフリクリオルタナはもっと評価されていいと思うよ。

 

プログレだけなら買いたいかなぁ…。オルタナは…いいや。

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