この間、こち亀の作者「秋本治」の本を読んだ。
そこに、こんなことが書いてあった。
そして、大事なことは批判を無視することでしょう。
(略)
褒めてくれる人の声に答え、もっと喜んでもらうためにがんばろうと思った方がずっと建設的です。
これ自体は色んな人が言うことだけど…当初は懐疑的だった。
若いうちは謙虚に批判を聞いていたけども…
厳しい批判の中から生まれてくる知識やアイデアもあるから
「いい批判はどんどん拾おう」
と思っていた時期がけっこう長かった。
しかしながら…これは20代のペーペーだからこそ「ぼくが知らない考えや知識もある」と謙虚に聞いていた。
20代後半から「いい批判」を見かけることが年々減ってしまった。
批判する人だけの問題ではなく自分自身の変化や人徳もあるから一概に「ネットのレベルが下がったから」とも言えない。
変化とはなにか?
過去にいい批判をしてくれた人や、自分に高いレベルを求めていい意味でプレッシャーを与えて続けてる人は、ぼくの味方になるか、付き合いきれないところもあって、がんばってみたけどダメだったことが多くて限界を感じたりしたのだ。
さらに、ぼくは30歳にもなると…ブログやネットの歴史を一通り見てきたから、ほとんどの批判は
「あの…その批判は間違ってますよ?」
「結局の所、何が言いたいのでしょうか?」
「噛み砕いていくほど、あなたが言いたいだけで、ぼくへの批判というよりは自己満足ですよね?」
「あなたとぼくは違うので、当てはまっていないという一点だけで粘着されてもお互い何も幸せになりませんよ?」
と、お互いにとって身にならないと気づくことが増えた。
日本人は謙虚だの、腰が低いだの、お客様は神様だの誰に対してもしっかり受け止めて答える人を好む傾向があり、私もそれを目指したが…年々このスタンスで損することが多くなっていた。
いい批判だと感じることが3割とか半分とかあるうちは謙虚な方がいいと思ってたけど…1割ぐらいしかいい批判がない状態になると「1割をいかに無視するか」が課題になってきた。
そもそも、バカな批判にイラついて無視できていなかった理由
これは人によるんだろうけど…ぼくの場合は、あまりにも見当違いで事実無根の批判を受けると…なぜその人がそんなことを言い出すのか真剣に考えすぎてしまう。
「その程度のことしか言えないやつがどうやって生きてきたんだろう?」
「それともバカなふりをしてうさはらしをしたり、ぼくを怒らせようとしているだけなのか?だとしたら、そんなことが楽しいと思えるなんてとても悪趣味だ」
「苦労して作ったものに悪意が向けられているのか…だとすれば、議論も改善もできない。そもそも好き嫌いで言ってるのだから」
とか、考えすぎのドツボにはまる。
しかも、ダメな批判について真剣に考えれば考えるほど、その人のバカバカしさか、悪趣味か、悪意そのものが見え隠れして、嫌な気分にしかならない。
敢えて言おう!
バカについて真面目に考えてはいけない!!
不思議でかつ、得体が知れない気持ち悪さがあるから考えたくなる気持ちもわかる。
でも、考えれば考えるほど自分も嫌な気分になるし、相手が幸せになる方法も見つからないから…。
ここまで考え込んでしまう人は珍しいかもしれないが、大なり小なりバカなことにイラツイている時は…内容が見当違いなこともさることながら、考えてますますイライラしてることが多いみたい。
ポジティブに受け止めるための第一歩は「自分が見られてるから見たことないバカも寄ってきた」という認識
これは、秋本治さんも本に書いてたことだし、成功した人の多くが言ってることだが…成功した人ほど自分がラッキーだと言う。
ちょうどいいので自分もそういうふうに考えるようにしたところ、たちどころにイライラやモヤモヤで頭の中がいっぱいになることが減った。
というのも…見当違いで不躾な批判なんてものは、多くの人に見られないと起こらないのだ。
特にインターネットの世界では、ホリエモンやテレビで有名な芸能人になるほど、見当違いな批判は増えていく。
逆に言うと、ネットで自分を明後日の方向に批判しているバカを見かけた時には
「自分のことを知らない、特に考えられない失礼な人がぼくを見てくれるほど話題になったんだなぁ〜」
と思うぐらいでいい。
極端なことを言えば、あまりにもスットンキョウな批判ばかりがついて、見られた数も多いならば
「ぼく、今有名人の仲間入りしてるわぁ〜」
ぐらいに思っていればいい。
これでマシになる人もいるけど、ぼくはまだイライラが収まらないので、もう少し深く考えていくと…こうなった。
自分の実力でどうにかしたと思うのはやめよう。いや、実力なんだけど、ラッキーあってのものだし。
多くの人に見られるようなものは、それなりの計算であったり、苦労であったり、労力がかかっていたりする。
だからこそ、頭ごなしな批判や難癖は腹が立って「ぼくが一生懸命考えてやっていることに、そんな雑なケチをつける権利がお前にはない!!権利もないのに批判すること自体が失礼だ!!」と怒り心頭になることだろう。
しかし…そこで、身もふたもないほどのそもそも論に帰る。
「Twitterがなかったらぼくのツイートが注目されることはなかっただろう」
「シェアしてくれる人がいなかったらこんなに話題になることがなかっただろう」
「インターネットがない時代ならここまで注目されなかったけど今だから、とても注目されて憧れのあの人にもぼくの書いたものが読んでもらえている。」
そうなんだ。100%実力なんてありえない。
人気サイトの存在や、インターネットの力、シェアやいいねしてくれた人の協力とタイミング…これらは自分の実力だけではどうにかできないんだから、実力だと思わないようにしたらいい。
実力だけでうまく行かないという自覚を持って考えたら…褒めてくれる人や自分の幸運に感情が持っていける!
批判されるとなると、批判した相手に対して考えすぎてしまうからしんどくなるけど…褒めてくれる人について丁寧に考えるようにしたら、考えすぎで失敗することが減る。
考えすぎないための方法には3つの方法がある。
1つは考えないこと。これが一番言われることだが、実際には難しい。
1つは別のことを考えること。しかし、私のようにADHDを持っているような人やメンタルが弱い傷つきやすい人、考え込んでしまう人は、他のことに手がつかなくなる。
そこで、第3の手段として「賞賛やうまく言った幸運もきちっと考える」ということ。
評判が良かったり、うまく言った時に
「このやり方なら行ける」
「これに読者がつくなら、他にもこんなことができるのではないか?」
と前へ前へ、ポジティブなフィードバックを自分でしていく。
成功してる人間って 特に人前に出るような人であれば 徳が高い人が多いけどあれって 今考えてみると 自己防衛なんだと思う
運を味方につける という意味で。
自分が運がいい時に 運の良さに感謝して頑張れないと どんどんどんどん悪い部分ばかり気になるから 徳は必要だよ
— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) August 29, 2019
自分だけではどうにもならないインフラやプラットフォーム、他人からの応援…それらを総合して「運」というなら、運を良くするために徳を積むのが大事。
期待に対して応えるとか、いい情報を提供するとか一度応援してくれた人がまた応援したくなるようなことを続けるのが大事。
それが、ポジティブなフィードバックを行動に起こしていくことだ!
ネガティブなフィードバックは相手が間違ってたり、前提がおかしいことがたくさんあるから、よほどまともな批判、事情がわかってる身内や親身になってくれる相手との間でしか成立しない。
でも、ポジティブなフィードバックは褒めてくれた相手のことを思って考えたり、うまく行ったことを応用したり続けるために考えるのだから、生産性のあること。
だから、ぼくはこのやり方を推奨したい。
全部敏感に反応しちゃいけない。神経質であったり、人より敏感すぎたりする人に合わせることになってはいけない。
自分にとってネガティブなことは目に入っても考えすぎない鈍感さが大事。
敏感過ぎる病気はあるけど、鈍感なことが病気(病名)になることはあんまりないのだかから。