なぜシン・エヴァンゲリオン劇場版を見るとみんなスッキリするのか?

見てきました。

個人的な思い入れとして、新劇場版が始まった時に高校生でした。
だから、「新劇場版:序を見たところから、色んなアニメを見て、オタク趣味にどっぷりハマっていった」という年代であり、完結する時には30過ぎのおじさん。

だから、「さらば我が青春」的な感覚で見た。
TV版/新劇場版の伏線やモヤモヤの大半が解消されて、すごくスッキリした表情で映画館から出てきた。

なぜ、シン・エヴァンゲリオンを見るとあんなにスッキリするのか?

身もふたもないことを言わせてもらえば、
「みんなが見たいエンディングだったから」
です。

シンジくんがちゃんと成長して、人類補完計画をシンジくんの手で阻止して、シンジくんが「エヴァに乗らない幸せ」を手にするエンディングを多くのアニメファンが見たかったから。
それを、長い人でTV版放送からの25年、短い人でも新劇場版の序から14年も待ってたんです。
そこまで待たされてほしいものを与えられてたら「飢えが満たされるような幸福感」を脳が感じ取るのは当然のことでしょう。

 

当たり前過ぎることを書いたから、あんぐりした人も多いと思います。
でも、家に帰ってシン・エヴァンゲリオンの感想や考察を見てみると…この部分を語れてないヤツがなんと多いことか…。

シン・エヴァンゲリオン考察/感想があまりにも「映画を見終わった後の気持ちよさ」を代弁してくれない理由

エヴァシリーズはアニメオタクが最も論争を繰り広げる作品だ。
しかし、論争の多くは、作中用語と元ネタについての解説や考察ばかり。

でも、ウルトラマンがどうとかナディアがどうとか、
庵野秀明監督の人間関係をめぐる私小説で昔好きだった声優さんとは終わって、今の奥さんと結婚してよろしくやってるから…とか?

エヴァという作品の面白さや魅力を伝えるような語りか?と言われると、微妙だ。
むしろ、考察や作品語りが好きなオタクが、新しいおもちゃをもらってはしゃいでるだけ。

 

「本当に必要とされている詳しいエヴァンゲリオン考察」は岡田斗司夫さんが作ることは上映前からわかりきってます。
あの人に勝てるオタクなんてそうはいないだろう。
ましてやGAINAX初代社長で庵野秀明監督と同年代のオタクである彼よりも詳しいエヴァシリーズの考察なんか世界中の誰もできないんです。(できるとしたら監督本人だけでしょう)

そんなのは当のエヴァシリーズのファン達が一番わかってると思います。
それでも、なぜエヴァ考察をやめられないかと言うと…オタクの中でもうんちくを語ることや、知識を集めたりひけらかしたりするのが好きな連中だからです。

エヴァンゲリオンっぽい言い方をするなら
「庵野秀明監督が知恵の実の味を多くのオタクたちに教えてしまったから」
とでも言うべきでしょうか?

だから、映画見終わって「みんなの感想を聞きたいなぁ〜」と思って、You Tubeで感想や考察の動画を見るのはおすすめできません。(と、感想記事を書いてるぼくが言うのもかなり編ですけどね。)

多くのシン・エヴァンゲリオンの感想は「やっぱ庵野秀明監督が作った知恵の実ウメェ!」と考察ごっこをしたいだけの人たちが盛り上がってる人たちの別の遊びに巻き込まれるだけなので、ホンマにおすすめしません!

 

逆に、本当に映画を楽しんだ人や感想を分かち合いたい人にとって、ものすごく感想動画が作りにくい映画です。
なぜなら「キレイに終わった」作品だから。
上映直後は得も言われぬ満足感を感じて言葉が出ず、時間が経つと長く心のどこかに引っかかっていたアニメが消えたことによる【エヴァロス】を発症してて語りたい気持ちにならないから。

「シンジくんの立ち直る様子が良かった」
「破やQの意味深発言が、シン・エヴァンゲリオンに繋がっててスッキリした」
など口だけなら色々なことが言えるかと思います。

でも、映画館を出る時の爽やかな気持ちと、映画を見終わった後の喪失感に勝る感情がないから語る気が起きてこないんですよね…。

考察や感想がまともならまだしも、「シン・エヴァンゲリオンまでエヴァシリーズがまともに終わったことはない」という勘違いをしてる人までいる始末

オタク達の考察ごっこがちゃんと的確ならいいんです。
でも、中には見当違いな感想や考察もあるから…「え?そこから説明しないといけないんですか?」と言う人もいたんです。

 

特に、「はぁ?」と思ったのは
「また、おめでとうとか気持ちわるいとかまた曖昧な形で終わると思ってた」
などと、過去のエヴァンゲリオンがしっかり終わっていないかのように言及した人。

エヴァンゲリオンファンの中に一定数いる「TV版/旧劇場版は完結してないor丸投げエンド」という層が、シン・エヴァンゲリオンの感想書いてるんですね…。うん、ぼくに言わせると「雑魚」がほざいてるわけです。

 

TV版のエンディングで「シンジくんの物語」としてのエヴァンゲリオンは1度終わってる。

TV版のエヴァンゲリオンは「おめでとう」と登場人物たちにシンジくんが拍手と祝福を受けるラストシーンはあまりにも有名なんですが…これがTVアニメとしては異色すぎるエンドでついていけない人を生み出してるんです。

 

ついていけないならついていけないで黙っておけば、「雑魚」なんて罵ったりしないのです。
しかし、「庵野秀明監督はエヴァを終わらせられなかった」だの、「庵野秀明作品は丸投げ」だの自分のおつむのなさを責任転嫁する人がけっこういるんです。

そのことに自分自身が気づいてないまま「シン・エヴァンゲリオンはスッキリ終わった」と言ってる。
ただ「みんな望んだ終わり方」がアディショナル(付加的)に新劇場版に追加されてるだけなのに…。

 

ちなみに、TV版で終わってないと思ってる人に言いたいことは1つだけ。

「エヴァンゲリオンって言葉の意味ご存知ですか?」

福音ですよ?福音!
聖書が言う福音とは「(キリストを)信じる時に罪が許され救われる」という意味です。

TV版の最終回は「シンジくん自身が、自分の(エヴァンゲリオン初号機に依存しない)色んな可能性を信じることで、自分の中にある自己嫌悪や罪悪感から開放されて救われてる」話なのですが…これ、一応タイトル回収して終わってるんです。

新世紀エヴァンゲリオンというタイトルは意味を分解していくと
「(エヴァが制作された20世紀から見た)新世紀に生まれ、新世紀を生きる少年に訪れた福音」
だから、ちゃんとタイトル回収できてて、終わってるんです。

もうちょっと詳しく言うと碇シンジくんは2015年時点では14歳の21世紀生まれの少年です。
そして、エヴァ初号機に入っているのは母である碇ユイの魂で、エヴァに乗るように強要したのは父の碇ゲンドウです。

シンジくんがエヴァに乗らない自分・幸せを見つけていくことは、14歳の少年の親離れなんです。
一通り使徒を倒し、エヴァに乗ることから開放され、自分の新しい一歩を歩む決意を固める…そうすることで自分のことが好きじゃないシンジくんが救われていく。

これって十分すぎるほど立派なハッピーエンドだと思いません?
私は人類補完計画とかが残っていても、シンジくんの物語として終わったTV版のエヴァはちゃんと1つのエンドを迎えると思いますけどね…。

隣人さえ拒絶し合うのが人間なのに、魂が1つになる人類補完計画なんて成り立つわけないよね?

人類補完計画について
「欠けた心の補完、不要な体を捨てすべての魂を今1つに」
とかなんとか碇ゲンドウが言っても、人類が1つになろうとしてる中でも隣人とさえ一緒になれない人間が「気持ちわるい」と拒絶するんですね…。

この気持ちわるいは、「シンジ自身が病院でアスカにしたことへのアンサー」という解釈が通説で、映画を終わらせる言葉という見方をする人は少ないですが…ちゃんと【人類は隣人同士でさえ1つになれないのに、まして人類全体を補完するなんて発想があまりにも気持ちわるい】という本質を切り取ってます。

 

もうちょっとだけ詳しくしないと分かりづらいか。

碇ゲンドウというキャラは、理想主義でロマンチストに人類補完計画を遂行しているようにゼーレの人たちに見せかけてますが…実態はただ亡くなった妻に会うためならそれ以外のすべてを犠牲にしてもいいというエゴイスト。

これは新劇場版シリーズでも同じ。ゲンドウ自身が「破」の中で、
自分の願望はあらゆる犠牲を払い、自分の力で実現するものだ。他人から与えられるものじゃない。シンジ、大人になれ」
と、他の人なんかどうでもいいことを示唆していて、シン・エヴァンゲリオンの中ではピンク髪のヴィレのクルーがゲンドウの計画や行動について「そんなのエゴじゃん」と小馬鹿にした発言をしてます。

 

世界史を見渡すと、【自分の理想を世界に押しつけたことで社会を混乱させた人物】なんてゴロゴロいます。
碇ゲンドウという人物は現実の世界史で言えば、絶対的権力を握った独裁者や悪代官に近い存在で、ダメな意味で有名な独裁者や悪代官は往々にして【理想の押しつけ】か【自分のエゴしか考えないで他人のことを顧みない】ことでしっぺ返しを受けることがほとんどです。

ゲンドウのやってることって世界史を学んだ人にとってはものすごくありふれた人間の失敗なんです。

人類が苦難を乗り越えるためのエヴァンゲリオン(人類にとっての福音)を自分のためだけに使おうとしたから、説明も受けてない他人から拒絶され、ゲンドウ自身が理想だと言ってる「欠けた心の補完」とやらも、隣人同士でさえ拒絶し合うからできるわけないし、できたとして一瞬で壊れます。

「人類補完計画を巡る物語」としてのエヴァンゲリオンは一応旧劇場版をもって完結してるのです。
人類史にありふれた絶対的権力の失敗談として…頭でっかちなおじさんが考えたことを小娘の身もふたもない直感的な意見に論破される形でね。

エヴァ考察がやめられない人たちとそもそもエヴァを考察する必要がない理由

旧作のエヴァンゲリオンについてまとめると

TV版はシンジくんの成長物語としてのエヴァンゲリオン(彼自身の福音)、旧劇場版は人類補完計画という人類を使徒から救うためのエヴァンゲリオン(人類の福音)を巡る物語として完結している
のですが…悲劇だったのは、それらは視聴者が見たい物語じゃなかったんですね…。

一般視聴者が見たかった物語はシン・エヴァンゲリオンのように、【シンジくんの成長と人類補完計画を巡る物語が一体となった作品】だったのですね。

おまけに、エヴァンゲリオンという作品自体があまりにも元ネタが多いオマージュやメタファライズの多い作品だったがために、わからない部分があることにモヤモヤするオタクたちが無理やりわかろうとして、庵野秀明監督の過去作品やプライベートの話題をも加味した私小説としての解釈をひねり出すようになっていくんですね…。

 

本当は、GAINAXの(独立したTRIGGERやカラーも含めた)オリジナルアニメの多くは
わかるようなわかんないような作品だけど、すっごい面白いことだけはたしかだ!!
という作品が多いです。
特に今石洋之監督の作品は、視聴者置いてきぼりのテンションでキャラクター達が喋っていることに自覚的なキャラが多く、ツッコんだり要約するキャラがセットで登場したりします。
逆に「わかんない方が良い」まで突き抜けてしまったのがFLCLで、十数年を経たリメイクではわかりやすくしてしまったことでかえって矮小化し、FLCL本来の疾走感が失われて寂しいという人までいる始末です。

 

だから、別にエヴァンゲリオン用語なんて好きな人だけが考えたらいい代物なんですよ?
でも、エンディングがあまりにも斬新過ぎる上に望んだものじゃなかったからこそ、難しく考える人や自分がわかんないからといって監督を責める人が続出したんですね…。

 

しかも、エヴァンゲリオンがなまじ面白すぎた&物語としての風呂敷を広げすぎたから、終わり方のハードルが上がってしまった。そのことが
「シンジくんはもちろん、人類補完計画の巻き添えを食らった人達が皆が救われて、新しい人生を歩むところが見たい」
という視聴者を望んだエンドじゃないと満足できない体にしてしまったし、監督自らの十字架になってしまったところがあるのですよね…。

でも、シン・エヴァンゲリオンは監督の背負った十字架も、ファンがドツボにはまって考えすぎてしまったことも全部リセットした。
だから、劇場終わった後に意気揚々と気持ちよく出てこられるような映画なんです。

 

 

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