承認欲求について書いて欲しいというリクエストがあったから書く。
いい話を書いたつもりだから、最後まで読んでくれると嬉しい。
今や、私ほど承認されたブロガーもおるまい!
僕は「はてな村でそこそこ力を持ってる」と豪語しているが、全くのハッタリというわけでもない。
はてなブログ内で30番目に読者が多く、
PR記事を書いて欲しいと呼ばれた場所でも「はてなの重鎮」枠として呼ばれ、
貧乏な癖に人気ブロガーの役得であれやこれやとプレゼントをもらったり、色んな事件を見てる歴史の生き証人でもある。
最近の人からの人気はもちろん、はてなのレジェンドからこんなエールが…。
感性豊かな文章力で癒しを与えると共に社会的な内容に至るまで誰にでもわかりやすい価値ある文章を量産してきた人気ブロガー。はてなアイドルと言ったらこの人のことです
青二才さんの長い活動やその文章に価値を感じているファンならば不安を覚えた方もいるのではないでしょうか… おおつねさんを陥れたようにも思える彼女に青二才さんが会って無事でいられるのかどうか。
私が青二才さんの側に重きを置いて考える理由はそのブロガーがネットにおいてどういった文章を打ってきてどれほどの期間活動してきたのかという部分で存在価値や重みが違ってくると思うからです。
アレだけの文章が書ける人に自分の価値を見出してもらった上で、(特に個人的な利害関係も)心配までしてもらえる。
これほど承認欲求を満たされることもなかなかないだろう…。
いかにして、承認欲求ゾンビはできあがったか?
でも、僕は病人であり、社会的な価値は0どころかマイナスだ。
正直言って、いい学校だってできたことないし、スクールカーストも高くない。
後々発達障害だと気づくことになるが、そうなる前から早々と
「自分は学校の勉強やスポーツができる人間じゃないから、友達や周りの人か一目置かれるものを持ってる人になりたい。成績表がなんと言おうが、友達とか先生で気に入ってくれる人を作れる人になろう」
という決心が、後々インターネットに燦々と輝く承認欲求ゾンビを形成したのかも…。
欲を言えば、親にオタクへの理解があり、クリエイティブ系の友だちができてたらもっと早く何者になるかが決まっていたかもしれない。
が…ゲームやイラストで才能を発揮できたとも思えないから、これもこれで運が良かったのかもしれない。
自分がブログを書き、ブロガーとお会いし、色んな人ならお褒めの言葉もプレゼントも貰っておいて言うのもなんだが、ブログ界隈とは僕ごときの才能で頭角を表せるほどにしょぼい分野だった。
特に、僕が登場・ブレイクした2012年ぐらいのはてなは伊藤計劃や有村悠のようなダイアリー時代の天才的な人達がいなくなった後のはてなであり…2013年には罪山罰太郎さんがいなくなったり、再度復活したコンビニ店長までもすぐに消失してしまう。
古参の、本当に実力があるクリエイティブな人達がはてなから相次いで消えて、新参のブログに慣れてない・昔のインターネットを僕よりも知らないような人達が入れ替わって入ってきた時期に、僕はすでに「人気ブロガー」の位置だけは獲得していたため、僕よりも才能があって外部で書くようになった人でも僕のことを知っていることが多く、むしろ書ける人ほど僕をまともに尊敬してる場合がちらほらある。
しかも、幸か不幸か仕事をきっかけに病んでしまったこと、病んだ時には人気ブロガーで小遣い程度の収入があったこと、(人に会いにくくなった生活の中で)オフ会のお誘いを受けることから、周囲からブログを書くことが趣味としても病気と社会復帰の間のリハビリとしても認められてしまった。
2013年…いや、体調が落ち着き始めた2014年以降、かなりブログに専念できる環境ができあがった。
しかも、人気ブロガーとして認知された時期が心が病み始めてた時期だったため、病気が治るとともに、コンテンツの質は上がり、「炎上ブロガー」の肩書は最近の読者であればあるほど「(炎上抜きでの)人気ブロガー」として見る人が増えていった。
中途半端な才能であっても認められたい、
親に認められなかったり、生まれつき持ちあわせたものが学校や社会とはミスマッチだったこと、
インターネットに飛び込んだ時代がちょうど過渡期で中途半端な才能の僕ですら認められてしまったこと、
そして、周囲が自分よりも年配者でプレゼントや仕事を僕に渡せるような人、年齢ゆえに他人を素直に応援できる人がいて、ブログで目立ち続ければ、それをいい思いをさせてくれる形で承認してくれる人…
これらが承認欲求オバケのような人間を育てたのだろう。
じゃあ、承認欲求の果てに僕は何を思う?
これについてはジャングル・リベンジという企画で大泉洋さんがいいことを言ってる。
大泉:(藤村Dのかばんを預かって数分後)カメラも持ってやっか。
いよいよこのカメラ、ただの荷物と化したけど、いいね。
みんなで助けあっていけばいいじゃないか。
(ブンブン・クンバについた後の会話)
藤村D:大泉くん、荷物ありがとう。おかげで僕、11キロ歩けた。
大泉:僕はねぇ、7年後(38歳になった時)にね、あの荷物を持って歩かされることを思ったらね、君に持たせられなかった。これは31の僕が持とう。38歳の僕がこの時にね、31歳のやつにね、「おい持て」といえるように僕は今持った。
こんなつらい思いを藤村くん、まして嬉野くんにはされられない。
藤村D:大泉くんはカメラも持ってくれた。君が44歳になった時に
大泉:あーそれは恐ろしい。31歳の馬鹿な男をただびっくりさせるがために、この道のり(ジャングル11キロ)を44歳で歩かされるとおもったら、嬉野くんに持たしちゃいけない。
最近、似たような心境になった瞬間があったからまずはその話をしよう。
つい最近、自分が人からもらったプレゼントの中では最も高額なものを頂いた。
靴を下さったサイバーメガネ(id:cyberglass)さんお気に入りのブランドの靴、本人曰く「生放送で罵倒したお詫び」だそうだが、カジュアルの靴に2万円なんて一生かけない(お金を持ってても靴に価値を見いだせなかったし、そんないい靴を履くことがない)僕から見ると驚くようなプレゼントだった。
もう一人の出資者である鈴木さん(id:suzukidesu23)についてはなんの落ち度もないのに、靴のプレゼントに出資してくれた。(彼は過去に誕生日にしこたま飲み食いさせてくれた人でもある)
しかも、その後に斎藤さんと食事しながら談笑する間、昼間からビールを2杯ごちそうになり…はい、どう見てもいいご身分です。本当に、身の丈に合わない贅沢をさせていただきました。
と同時に、僕は考えた
先程も触れた通り、僕は2万円の靴がどういうものか知らないから、お金を持ったとしてもそれをプレゼントするというだけの教養もなかった。
当然、靴のブランドなんか服のブランド以上に分からなかったし、価格の違いがどういうところに出るかもわからなかった。
いままで、色々なプレゼントやギャラ代わりのおごりを受け取ったことがあるが、それらとは大きく違うのは「今のままだと俺にはこんなプレゼント、一生できなかったかもしれない」ということだ。
感謝や金額の大きさだけではなく、「自慢の靴のブランドを紹介する」というプレゼントに教養を感じるほどにはカルチャーショックだった。
「俺、30・40になった時に、20代の男の子に、あっと言わせるプレゼントを贈れる人になってるかな?」
とふと思った。
承認欲求に飢えて「これからも承認され続けるためにはもらったものをどうお返しするか」「どれだけのものをもらったからどれだけ返さないといけない・貢献しないといけない」としか考えなかった人間が珍しく、自分が人を承認する時に人をどのように承認できるかを考えてしまった。
金銭的なことだけでなく、最初の方に書いた「自分の積み上げたものの重みから、自分の行く末を心配してくれるファンの存在」だってそうだ。
単に「いいね」「面白い」「よくかけた」と言われるのも嬉しいし、ありがたいこと。でも、「心配」までしてくれる人を見ると「僕は承認も期待もされてて、僕はもう一人じゃないんだ」と思えるのだ。
数字や勝算に応える義理・人情・浪花節はそれは大事なことだ。
それも大事にしない人、何かをもらった時にお礼も言えない・嬉しそうにもできない人・何かそれをきっかけに面白いことをできない人は次に誰かになにかもらうことは多分できないし、信用もされない。
でも、それを自分のやり方で、他の人と違う形で示せる人に「かっこいい」があるんじゃないか?
承認した相手に、そのことが金銭的なことだけでも義理とか貸しとかを超えた所にあるものを見いだせることができてこそ、承認欲求の向こう側に行けるのではないのか?
自分が承認して欲しいとか、利害や期待を込めて一目置くとかだけではない、「これができるようになりたい」というものがあるのではないか?
承認ゾンビでもいいし、才能なくて認められない時期があってもいい。
道連れになる子どもや奥さんさえいなきゃ、稼げない時期があったって多分いい。
頭悪かったり、物を知らなかったりしても勉強してついていく気持ちと覚えようとする習慣を付けて学んでいけばいい。
でも…一生それだったら、成長は頭打ちする。
自分よりも才能がある人を見つけた時、
自分が老いから自分ばかりではなく、誰かを応援したいと思った時
それも若い異性ではなく、同性の若者を応援したい時
その時に「俺を承認しろ」「お金はないけど、その道では有名人」じゃダメだなーと思えないと、なにか心に残るプレゼントを贈れる大人にはなれない。
そもそも、プレゼントをしてあげることも、他人を承認してあげることもできない。
承認欲求が満たされるまで突き進んだ後、あるいは承認してくれた誰かに感銘をうけた時、自分も誰かを承認できる生き方に少しづつシフトしていければ、もっといい大人、いい人間になれるんじゃないかな?
そうだといいなぁ…と思いながら今日もネットでくねくねと生きているのです。
承認欲求が極限まで突き抜けた時に僕のように「他人を承認してあげられる・承認したことが伝わるような贈り物がデキる人に」と考える場合もあるけど、はてな村研究家の小島アジコさんの場合、違う意見をお持ちのようです。詳しくは本書参照
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成熟とは老いや経験からくる趣向の変化。子どもらしさを捨てることじゃない。
承認欲求繋がり。 でも、そんな承認欲求じゃ突き抜けられないんですよね…。
「健康」と「現役バリバリ」の間ぐらいの体調を行ったり来たりしてる…。