うちのブログでは初めての死刑談義をやってみたい。
事のきっかけは「アメリカで死刑囚が酷い殺され方をした」というもの。
CNN.co.jp : 死刑に使う薬物変更、10分間あえいで死亡 論議も 米オハイオ州
それに対し、はてなブックマーク内のコメントに次のような意見があった。(個人批判ではないのでIDは晒さず、箇条書きにする)
・妻子の死に目にすら遭えなかった遺族としては「家族に看取ってもらえるだけ有難く思え」って気持ちだろうな
→被害者感情も確かに死刑判決のために考慮されるけど、刑罰自体は被害者に恨みを晴らす事自体が目的じゃないからね~
・殺された22歳の妊婦のことを考えれば当然の報いではないか
→言ってること自体はわからなくないけど、少なくとも日本では犯罪者に対して厳しい態度をとる姿勢が厳罰化を招いているのも事実であり、それはそれで問題。
・あんまり楽に死ねると、自殺志願者が極刑目当てで……なんてことにもなりかねんよ。
→そんなことするなら風呂の中でリストカットするか、車の中にランタン炊く方が早いと思うぜ?死刑になる条件も手続きも辛い。
今日話したいのはこのネタだが、先に死刑について知らない人が自分も含めて多いと思うので、先に死刑について解説してくよ。
裁判や死刑はもっと社会とつながっているもの
そもそも、なぜ「死刑」というシステムを存続しているかを死刑存続側の言い分から聞いてみたい。
日本で死刑になる罪の大半は「殺人」が混じっていることが条件となり、実際に死刑が選択される罪は殺人及び強盗致死のみだ。
死刑になる基準も一人殺しただけでなく、複数の人を殺めていたり、再犯であったり、計画性があり残忍だったり…殺人の中でも特に社会に悪影響で、加害者に反省の色がない場合(かつ精神的に異常が見られず、成人していると)死刑にされることがある。
殺人が絡んでくると、失うのは命。それだけは弁償できないでしょ?
物を盗んだ・人に迷惑をかけた・マナー違反をした…それだって罪だよ?でも、被害は弁償できるし、反省して懲りずに繰り返したって取り返しはつく。もちろん、繰り返すのは良くないことだから取り締まるべきだ。
ただ、人の命だけは「誰かを計画的に殺しました」「何回も人を殺しました」となったら、もう償えないし償う気持ちもない。生かしておいた日にはまた新たな被害者が出る危険もある。(釈放できないようにしても脱獄されることだってある。)
その償えないだけの罪を犯した人が「命だけはお助けください」と言うことはフェアじゃない。償いの観点から見ても、普通の生活をしている人から見ても「なんでお前の人殺しはOKで、お前は税金で飯付き・屋根付きでのうのうと長生きしてる?」となる。
社会に対して命以外で償うことのできないことをしているし、自分だけは人を殺しても助かる…というのは死刑囚からしてみれば、あまりにも気楽すぎる。
昔の偉~い刑法学者の言い分を噛み砕いて説明するとこんな感じ。実際に日本では複数名の殺人を犯さない限りほとんど死刑にはならない。筋は通ってる。
長いからもう一回まとめなおそう。死刑賛成論者の言い分を簡単に挙げると
・社会(法律や人間社会で生きる一個人)としての契約のため…残酷な殺人は命以外で償うことができない重罪で、殺人後の再犯が死刑になりやすいのも命以外では償うことができないという判断
・犯罪への抑止力(初犯)…牢屋でも同じことが言えるが、「悪いことしたら牢屋に入ります」「死刑に怯えて何十年も狭い部屋で過ごします」という生活をしたい人間なんて誰もいない。むしろ、そういう場所や自分がされることに恐怖して足がすくむ。
・犯罪への抑止力(再犯)…「刑務所よりもその上位の威嚇として、死刑があり、次の殺人では牢屋ではなく、死刑ですよ」という抑止力も発揮している言われてる。
・遺族の感情に対応するための措置…さっきも言いましたが、命は弁償できない以上「あいつだけのうのうと生きてるなんて許せない」と思う人はいる。そういうのが社会規模で起きる場合もあるが、誰よりも感傷的になるのは遺族だ。
特に「妻子を殺された」となれば遺影を持って記者会見し、本当に「犯人には死刑になって欲しい」なんて言い出す人も実在する。悪いことじゃない。弁償も償いもできないものを壊された人間としては「せめて一矢報いたい」と思うのは有史以来当たり前。
でも、「私刑」が認められないから、死刑判決を通じて復讐や私刑を抑止するように配慮するよ…が死刑存続論者の言い分。
殺し方ではなく「死」そのものこそが償い
死刑存続派の言い分を調べて行くと「現場で運用する人間や個々のケースよりも、死刑を通じて社会全体の秩序や世論を落ち着かせたい」という傾向が強い。
実際に、日本では江戸時代までは残酷な処刑がされていたが、死刑の目的意識が「見せしめ」よりも「治安維持」の優先度が高くなるにつれ、死刑が簡略化され残虐でもなくなった。
それでも、日本人は犯罪者に対して特に冷たい国だ。戦前の刑務所では人を人として扱わなかったため、昭和以前には「脱獄王」と呼ばれるほどの囚人が二人も登場して、決死の脱獄劇が今も語り継がれている。
日本では「罪人はいかにも罪人っぽく苦しんでいるべきだ」という価値観が処刑からも脱獄したくなるような酷い刑務所からもにじみ出ている。
欧州文化とは大きく違うね。
・北欧の刑務所の方が俺の部屋より快適で綺麗( ;∀;)
・ギロチンもまた、処刑者の負担を減らすために作られた
・主要国では死刑が廃止された。(が、死刑という制度を採用していた時期は日本よりもずっと頻繁に死刑が施行されていた)
ヨーロッパで死刑がなくなった経緯についてはあまり語られてないから、少し付け加えておく。特に主要な国で死刑がなくなる前には「死刑制度が悪用される・乱用される」という時代背景を経ている。その教訓から「死刑ダメゼッタイ」という世論が形成され、死刑廃止へと向かった。
フランスとドイツはヒトラーがやりすぎたことが原因で戦後になって死刑廃止に向かい、イギリスでは死刑に当たる犯罪を増やしすぎた事が大きな原因になっている。(ちなみに、ギロチン開発の経緯も公開処刑の残虐さによるところが影響している)
日本の死刑反対論者が言うような「誤審で人を殺めないため」「国際基準に反するから」という思想とは全然違う。
今の日本と近いイデオロギーで死刑を執行してたのがスウェーデンで、スウェーデンは戦争犯罪と殺人しか死刑にしなかった。そして、死刑の人数がほかの国ほど増えることもなかった。…けど、「死んでまで償うべき罪なんかないんじゃない?」という意見が多くを占めるようになり、1920年代に大国に先駆けて死刑を廃止してる。
ヨーロッパ諸国と日本はまず「罰」の捉え方が違う。
日本は「痛みで償え」という痛みの大きさとして、悪い環境の刑務所や死刑がある。ヨーロッパでは「存在を抹消すること」そのものに意味がある。
勧善懲悪や権力による「見せしめ」の側面が日本では強く、公開処刑や見せしめをやりすぎた欧州では犯罪者を世の中から取り除く「治安維持」の側面が強くなり、刑罰を与える方法に影響している。
痛みつけて反省させたり、苦しませて殺すことは凶悪犯に罪を償わせる意味でも、社会の秩序を守る意味でも本質から逸れている。だから、死刑にするという選択がなされることはあっても「死刑のやり方をより死刑囚が苦しむように殺してくれ」という要望は多くの場合通らないし、そういうことを目的に死刑をやっている先進国は現在はなくなった。(そもそも、死刑が執行される光景自体見るべきものじゃないという価値観の方が一般的になって公開処刑と派手な処刑器具は前時代を彷彿させるファンタジーの一部になった)
最後に、自分の意見を
僕は死刑については賛成側の立場だ。でも、それは「死んで償え」じゃなくて、「その人の存在が社会から抹消されないことには解決できない凶悪犯・再犯や被害者感情/社会的があるから、死刑は必要だ」という立場だ。
誤審の可能性は否定できないが、誤審の問題は禁固刑でも関わる問題である以上は死刑を無期懲役にしたって解決しない。そもそも死刑自体の基準が慎重で難しい条件の中で出されるものであるため、死刑を廃止するという全体のシステムを変えなくても改善できる問題だと考えている。
「社会に存在できない・存在させないこと」というのが罰なので、その罰を過ごすことを受け入れやすい環境にすべきだと私は考える。
だから、刑務所も北欧並みの快適さを実現してもいい。死刑囚に対しても死ぬことの苦しみではなく、存在することそのものを取り上げる事が「罰」なのだ。それ自体に苦痛が伴う必要はないと考える。
むごい殺人を犯した相手にだって、感情ではアレコレ言えるけど、原則は適用されるべきだ。何日だって死ぬことを宣告されることも、死ぬのを待っている間にこれといってすることもなく待ってることも、常人であれば苦痛極まりない。(しかも、日本の場合は政権によって死刑を執行しないこともあるため、20年待ち・30年待ちでの処刑はザラで、いつ死ぬかもわからない)
考えたこともなかった問題を考えたあとだから言いたい。
この問題を議論する際に、犯罪者・受刑者・あるいは死刑の審判を下す人を安易に考えがちな傾向があるけど、それ自体が社会ともつながっているし、ひとりの人間としてしたいこと/避けたいことがあるというのを配慮して喋ってもらいたい。
それをするのとしないのとで、あるいは外国のことや関連の歴史まで調べるかどうかで見方が大きく変わる面白いジャンルです。いい本やいい先生を見つけたらまたやってみたいです
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