僕が美術の授業を嫌いだった理由を語ろう

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最近、こんなものを読んでいます。

読んでいて「萌え絵の理論自体はとても人体の構造を配慮した研究されたものだったんだ!」と感じた。

もっと根拠がないというか、人体というよりもかわいいとか描きやすいとかイラストを作る側の都合でできた画風だと思ってたので、読みながら驚きの連続だった。

例えば、 顔の骨や表面を指でなぞりながら「目と耳の位置関係は…」「横顔を描くときには鼻の形に合わせて、鼻の骨の上の部分は少しくぼみを作って…」という教え方が僕にとってはとても新鮮だった。

子どもの頃、僕にとって美術の授業が苦痛だった。
そのため、どれだけオタク文化にのめり込んでも「どうせ僕は絵が描けないし」という疎外感を感じていた。

絵に関する文化や歴史、それらを作る製作者にもとても興味があるのに「僕にはセンスがない」「もう大人になってしまった今、学んでも遅い」と、自分がやるイメージが全くできなかった。

周りに絵が好きな友達が増えたのにそういう場所に飛び込めない自分がもどかしく、思い切って絵の本を読んでみたところ…僕が苦手だったものや感じていた疎外感は「美術教育でうまくいかなかっただけ」であって、そもそもスタートラインにも立ってないことに気づかされた。

美術の授業だけは未来に活かせない

例えば、リコーダーに関しては大人が吹こうが、子どもが吹こうが楽譜通りにさえ吹ければ、そこまでクオリティに差がでない。
音楽経験者が独自のアレンジや肺活量の差を見せつけることはあるけど…それは子ども、大人ではなく経験の差でしかない。

家庭科もそうだ。
例えば、「レシピ通りやれば、どんなやつでも料理が作れる」という教訓は子どもでも大人でも変わらない。
毎日のように家事をこなしている人の方がスピードも独創性もあるが、家庭科の授業でそこまで求められないし、そこまでできなくたって、自炊はできる。

でも、美術は違う。
美術の授業通りにやっていても「子どもが作ったのかしら」の水準を越えられない。
科目と違い、興味のある人以外は理論を教わらないため、「センスがある・ない」の話だと美術について思い込んでしまう。

原理を知っている人には中学校の図形問題の延長であり、それを理解して手数をこなして行けばあの「はいだしょうこ画伯」だって上手な絵がかけるようになる。

参照: 【画像】 はいだしょうこ画伯、プロの指導を受け画力が劇的に上達! 

が、美術の授業というのはその基礎をそもそも教えない。

教えないくせに、「見たまま描け」的なことを言われて、あのおおよそ写実的とも美しいとも言えないブサイクでシュールな絵が完成する。

そもそも、「写実的」とか「見たまま」ってなんやねんって話やで??

萌え絵だろうが、キュビズムだろうが、人体に基づいた構造からデキたもんやで?

人体(被写体)の構造を理解できてないヤツが描けばおかしなモンができるのは同じだし…。

このブログとてそうだ。

「文学」を読めと言って、明治~昭和に書かれた作品をありがたがるような教育をしてるけど…あんなもん仮名遣いの問題から言っても、扱われている題材の問題から言っても恐ろしく読みづらいぞ?

もっと酷いと、「活字を読め」と言う中に、ライトノベルやネット上の書物(ニュースやブログ)を除外して「文学」を押し売りしてくる先生とかがいたわけだけど…。

そんなの、一部の人の選民思想や理解のない老害の言い分でしかない。
時間が経過したから評価されてるモノも多くあるし、今のものは今のものでそれなりに理論立てて、技術を駆使して作られてるモノもあるのに、それを作られた時間とかジャンルでくくって「あれはいい」「これはダメ」と今の人が興味のなさそうなものばかり押し売りしてくるのは、その科目を嫌いな人を増やす弊害でしかない。

その辺の理由で国語と美術はダメだった。
数学・社会・理科にあるような明確な正解、勉強したものが世の中にある他のものに活かせる感じがしたから、まだやる気が出た。

「写実」が何かという時点で疑問なのに、言うだけ言ってろくにノウハウを教えないから余計に嫌いになった。

教えるものを教えないで、ただただデッサンさせて、テストして何が授業か?
ただやらせて、縦一列にできる人から並べているだけじゃないか! それもセンスがあるとかないとかひどい言い方をして!!

ちゃんとやっといたらよかったと思える授業が美術にはない

基礎のない試行錯誤は遠回りでしかない。
これが文章であれば、学校で何度も課題を出され、授業数もあったから上手く書く人は現れるだろうし、好きになるだけのきっかけもつかめるだろう…でも美術にはそういった「未来につながる」要素は少なく、のちのちまで使える「学」が少ない。

評価する側の力量次第ではもっと度量の広がるような授業でありながら、幅のある評価より(ろくに学も教えぬくせに)「型にはまったらしさ」ばかり求める。

時間数が足りないから限られたことしか教えられないのもわからなくはない。
でも、それを言い出すなら家庭科や音楽はその時間内で「大人になっても使えるもの・こと」を残してくれているのに、美術には「あの時ちゃんと授業をやっておけばよかった」と感じる授業がそもそもそない。

体育が嫌いという人も同じ意見が多い。
体育によって何かが身につくのではなく、課外で鍛えた身体能力や競技能力が反映された結果として体育の序列がつけられるため、スポーツ経験がまるでない人はだいたい体育が嫌いになり、スポーツをやっている人でも「テニスは好き、でもバレーボールは憂鬱」と言い出す事は多い。

美術と違うのは体力をつけること自体が残るし、マット運動やハンドボールなど学級内の有段者が少ない科目についてはちゃんと解説が付くため…チャンスがある科目も存在することだ。

それが美術にはなく、萌え絵の描き方の本にはあった。

そんな現状から考えることは「美術の授業は可能性を制約することや人にラベルやレッテルを貼るばかりで、可能性を伸ばすことには貢献してない」ということ。

そこにとてもモヤモヤするし、そんな科目が必要なのかと存在を疑問視したくなる人の気持もわからなくもないわけです…はい。

 

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でも、問題の質としてはこっちに近いのかも…。

貧乏な人に限って福祉や労働についての救済制度を知らなかったり、勉強できない人に限って授業に出てなかったり、出ていても自分が理解するための質問ができなかったり…美術もきっと「センス」以前の人はこっちの問題が大きい気がする。

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