これ、読んだ。
要旨だけを抜き出すと、「中学~高校で、英語の授業が週4時間あるとして総時間数:800時間、高校英語教科書の単語数:3000~5000…これでは、英語を学ぶ時間・修得する単語の量が足りない」という話だ。
当然といえば当然の話だよね…と思いながらも、疑問に浮かんだ事がある。
それは「そもそも、英語教育のゴール・高校までの勉強を終えたとする目安はどこだ?」ということ。平均ではなく、最小値として「いくつ単語を覚えていれば、高校卒業・大学進学ができる」んだ?
言い方を変えようか。
高校卒業と履歴書に書ければ、先生から出席日数と授業態度だけでもらったような高卒と、学校へ行こう!で見かけた超進学校在籍中で東大の赤本をスラスラ解いてた人が家庭の事情で働き始めたら?学歴上同じだけど、何が同じなの?どっちも実在するけど…。
あまりにも学力的に曖昧なので、教育系ブログにはこんな提言さえ出てる。
「英語教育を変える・修得するためにこれだけの時間が必要」は大いにけっこうなんだけど、それは何割の人間を照準にして話してるのかな?と疑問。
「高卒・大卒の意味」から議論しないと…
少なくとも学力ではないよね?学力だとしたら、僕は国公立や上位私大出た人に申し訳なくて、履歴書に「大卒」と書くのを躊躇する!他方、大学に来ても寝てるかそもそも来ないくせに代理や情報網を立てて「出席を満たして卒業し、ノートはコピーを用いて逃げ切りました」というヤツは…一緒にするなと言いたい。
しょぼい大学だよ?でも、一般入試で現役進学して、高校も大学も単位だってお情けとか無しで自分でちゃんと取って卒業してる正真正銘の大卒さ。
日本の学校制度の面白いところはこの「頭いい人も、バカな人も高校までは学校に同じ期間在籍して卒業する」ところ。大学も文系では習熟度よりも情報網を活かしてゆる~い授業をとって卒業するもの。実際に学力がついたかどうかをそれほど重視しない。(※特に社会科学系は勉強しないことに定評があり)
この「情報網」という観点で1つ思い出したマンガのシーンがある。
NARUTOという忍者のマンガに出てくる「中忍試験」のシーン。そこで、「忍びらしくテストを突破すろ!」というシーンがある。
色んなタイプの忍者がいて、自力で解くインテリもいれば、忍術を使ってカンニングしたりするのだが…何一つテストに書いてないヤツがいた。
でも、今挙げたやつらは全員合格してる。何も書いてない奴も。
理由は「テストという環境で行われるストレステスト」だからその場に残り続ければ合格する。(その代わり、試験管は必要以上にプレッシャーをかけて脅す)
現実の高校や大学もこの環境に近い。
実際の所、習った単語の半分も覚えてなくたって卒業はできるし、正攻法で進学できなくても推薦をもらって入試を終える事は…できる。(※よほど酷い学習障害にかかってたり、身の丈に合わない学校に進学してしまったりすれば例外)
学力よりもむしろ学力以外に引きこもったり、事件を起こして停学・退学になってしまって卒業できない事の方が多いんじゃないか?と思えるほど点数が悪い人・授業態度が悪い人にも単位をあげてる。
統計がないから感覚論でしかない話ではある。
しかし、NARUTOの中忍試験と同じかそれに近い「ストレステスト」として考えるとすごくしっくり来る。
「平日には毎日通学」「クラスメイトとはうまくやっていく(やっていけなくても、耐えられるタフさがある人はOK)」「正攻法で勉強できるのが望ましいが、日数が足りていて、席に座って50分×6コマ座ってれば単位をあげます」が本質であって、それが数学オリンピッククラス、帰国子女顔負けでも中学からやり直しレベルでも…まぁ、同じ高卒が取れる。
進学や単位取得の過程ではなく、それを「なんとか時間内にやり遂げて、そこに参加し続けること」が日本では評価される。
勉強よりストレステストを優先した結果の「悪平等」
「学力が教育の目標として機能してない。機能してないからこそ優秀な人は慢心し、できない人は勉強そのものをまるまる諦めてしまう。」
これを自覚した上で、「最低限度付けたほうがいい水準」と「実社会・海外にも通用するレベルの人を育てる水準」とを分けて設けた方がいいんじゃないか?
その上で、最低限がをいくらやっても満たせない人にIQテストなどの検査、違う学習法の提案をし、一番高い水準でも突き抜けちゃった人には別途学べる環境を用意したほうがいいんじゃないか?
できれば中学ぐらいからやり始めて、良くも悪しくももっと目の細かいふるいわけ・適切な選択肢の提示をしたほうがいいように見受けられる。
それが習熟度の授業か、土台プラスαの補習か、通信講座になるか、別の学校に通い始めるか…色んなやり方や選択肢があると思う。(本人の症状・人手・環境によるからどれか1つでは考えてない。)
「集団生活としての学校にこそ意義があり、そういった社会性・ストレス耐性・鬱屈しながら考えていくことが大人になって役に立つんだ」という主張はわかる。
でも、学校の中での「できた」「できない」「できすぎてしまうがゆえに孤立する」と言った問題に何の選択肢もないのは人材を潰す悪平等では?
それも発達障害によるバランスの悪さであり、家庭の事情である科目だけ(公文式のおかげで数学だけ・帰国子女だから英語だけ)突出してできたりする子どもなんか山のようにいる。
それを伸ばしたり、ハードルを順番に突破させる(しないといけない最低ラインだけは厳しく提示する)必要があるよね…現状では家庭・塾レベルの話だが、学校の方が教育も心理も受験も詳しい人が揃ってるのだから、何かできる仕組みがあるといいなぁ…とは思う。
「外人並みに英語を話すには英語を勉強する時間が足りません」
…でも、それだけ英語の勉強をやり抜ける人はどれぐらいいる?そもそも、英語を含めた高校・大学での学問上の経験はちゃんと評価されてる?そして、評価されてないとしたらその方針自体が教育の改善・人材そのもの、その両方を潰してないか?
勉強すること自体に価値を見出さない人、ストレステストや競争のためにしか勉強しない人に対してそもそもこういった問題が伝えないと何にも変わらないよ。
あらゆる専門家が「もっと○○するために、これが必要だ」と言うし、それは大抵の場合は正しい。でも、論点としてそれが納得してもらえるか、現状から移行できるかと言うとそれが難しい。
もちろん、個人として「なるほど、学校の量じゃ足りないから英語をもっと勉強しよう」と目安にするには価値のある数字だと思うんだ。
ただ、あの記事を誤読して「社内英語化」「TOEICを取れ」、「英語の授業を増やそう」「受験で英語の比率をあげよう」などとトンチンカンな方に揺れ動く人が多いんだよなぁ…
だから、「それだけ勉強する前に、そもそもその勉強を評価したり、技能を必要としたりして、それ相応の待遇を与えてるのか?」と言いたくなるんだよ。
勉強する・させるというアリバイ作りやそれを通じたストレステストで人を潰したり、制約している事案がこの国に、教育にもビジネスにも多すぎる…。それが人間関係を円滑に進めることもあるけど、同時に可能性とチャンスを潰してる。
最新刊のNARUTOをジャンプで読むとなにしてるか全体像がつかめず困惑する。自来也が死ぬ前後からあった傾向だけど、話が大風呂敷すぎて単行本読んでもわからないことが増えて、集めるのやめた。
ただ、先ほど触れた中忍試験周辺と火影VS大蛇丸ぐらいまでのNARUTOは神がかって面白いから一度読んで欲しい。…テニプリもそうだが、インフレした異能力バトルってもう何が起こっても驚けないのよ…
・関連記事
→自分が発達障害だと気づいてから、ものすごくこれは考えるようになったね
「やりがい事が見つからない病」にかかる高校生活への傾向と対策
→教育系記事繋がり。自称進学校にいるとこの悪平等の弊害をモロに受ける
アンチとはファンの最終形態の1つ~ドラマ「世界一即戦力な男」を見て、叫びたくなったこと~
→きっかけは高校1年で大検取ったこの人について考えたところから