小島アジコさんがウェブ上に上げたマンガが1000はてブを超える話題作になっている。
このマンガを読んだ人が「アジコさんは病んでる」とかなんとか言って騒ぎ立ててるのを見て、「君らごときにアジコ先生の闇(病み)がわかってたまるか!」とシャウトしたくなったから、ブログにてシャウト申し上げる。
801ちゃんから擬態を取ったものが子猫
このマンガが話題になった理由は「的確な社会風刺」ではなく、小島アジコさん自身が「世間一般の小島アジコ像を裏切った」ところにある。
小島アジコさんといえば、「となりの801ちゃん」で有名なマンガ家だ。
801ちゃんはジャンルとしては「ダークな部分を見せないように描かれた日常系」であって、「ダークがむき出しになった作品」ではない。
それが象徴されているのが801ちゃんのデザインだ。
もし、内容だけで議論するなら日常系の中で801ちゃんはダークな部類に入る。
なぜなら、そもそも女性の表裏、それの使い分けがないと生きていけない世界を前提に描いているからだ。801ちゃんには腐女子の擬態と小奇麗な本体が両輪駆動で描かれている。
もし、擬態がいらないほどオタク趣味が全面的に認められ、女性の立ちふるまいに対して「暗黙知」「同調圧力」がない世界なら擬態と本体は存在しないし、存在したとしてそもそも共感を呼ぶことだってない。
逆に考えると、チベットくんこと小島アジコさん本人に擬態がない理由には「男のオタクは擬態が必要ないから」ということもたしかにあるかもしれない。だが、むしろ私にはアジコさんが社会不適合者として自分を語っているからではないかと考えている。
ほかのことが満足に出来ない社会不適合者だからだよ。
また、アジコさんはマンガを書き始めた時にはすでに重度の鬱病だったそうだ。
躁うつ病患者として言わせてもらうと、私には社会を病まずに生きていける人はそれだけでタフに感じられる。
そういう視点からだとより一層801ちゃんと言うキャラクターがタフに見える。
擬態と本体を使い分けて趣味でも社会でも生き抜くだけでなく、病んだ人間と同棲して死なないように監視し、社会不適合者と自ら標榜するような人とそのまま結婚までしてしまったのだから。
参考:ベストセラー作家だけどハックルベリー(id:aureliano)さんの質問にこたえるよ!
801ちゃんには闇を闇として生々しく描写する話は少ないが、801ちゃんが描かれてる世界と801ちゃんが生きていくために身につけた擬態の存在は間違いなく闇の存在を匂わせる。
はてなブログでの小島アジコさんを知らない人は小島アジコさんの作風はもっとオタクに媚びた明るいものだと感じてしまいがちであり、はてなで描かれたものを見ると病んでるようにみえるが、そうじゃない!
実は801ちゃんからしてもう病んでたんだ!アジコさんは元々「子猫の仕事」のように世界が見えていたけど、それを断片的にしか表現しなかったのが「となりの801ちゃん」なんだ。
「801ちゃんは擬態ができる」ということを描くことで、作品内では闇を描かずに済んでいるだけで、本当は擬態できない人間(子猫の主人公)はああいう生き方になるというのが小島アジコ作品の本当の姿だ!
801ちゃんが闇堕ちしきらなかったのは愛情表現だから
小島アジコ作品を語る上で大事な観点は2つある。
1つはこれまでも触れた「小島アジコさんから世界がどう見えてるか」という観点。
本当は「子猫」のように見えているけど、情報を間引き、キャラクターに擬態という武器を加える事で「801ちゃん」を描き出してる。
言い換えれば、「子猫」のように世界が見えていないと801ちゃんと言うキャラクターを作ることはできない。
では、なぜ「子猫」的な世界をそのまま書かず、801ちゃんと言う擬態化を用い、闇堕ちしないキャラを描くことができたのか?
ここで、もう1つの「『自己表現』と『愛情表現』」という観点が出てくる。
「子猫」はもちろん、ブログ記事も小島アジコさんの『自己表現』である。他方、最も好評価されてるであろう部分、「801ちゃん」は『愛情表現』だ。
『自己表現』は自分の思ってること・悩んでること・見えているものをくっきりと描き出すこと。
だからベースにマイナスの感情があれば、それを包み隠さず、下手したらむき出しにして描くことが前提となる。
最近の作品で言えば、ユリ熊嵐の舞台が「(幾原邦彦監督にとって)世界はこう見えている」という描き方になっている。
いや、ユリ熊嵐どころかピングドラムで描かれているオシャレで無機質な世界にさえ「自分には世界がこう見えている」ということが表れている。
ところが、『愛情表現』として作品を書く場合はベースの中にマイナスの感情があってもそのまま説明をするような形にはしない。
ユリ熊嵐で言えば、絵本や絵本を元に主要人物だけを描いたシーンはほぼ愛情表現や美意識でできていて、具体的な闇の存在が少なくなっている。
幾原邦彦作品が難しく見える、よくわからない人が出るのは一般的な論理ではなく作家自身にとっての世界の見え方、そして愛情や美意識で形作られていることに気づかないとあの作品がわからないのだ。
だから、愛情表現と自己表現を1つの作品に両方盛り込むようなことは難しい。
大半の作品は自己表現として自分が見えてる現実の中でキャラクターをどう演じさせるかを考える押井守みたいな作品か、愛情表現を優先して鬱々した部分を(考えつく過程に関わっていても)描かない作品になる。
その両方を丸々盛り込んだ作品を作ると幾原邦彦作品のように大ファンと、全く共感できないどころかバカにしてかかる人しか生み出さなくなりやすい。
小島アジコさんの話に戻す。
小島アジコさんにとっての「子猫」は自己表現、「801ちゃん」は愛情表現だ。
愛情表現をする時には自分が見えてる鉛色の世界の存在よりも自分を振り回してくれる彼女がいかにかわいいか、それが擬態であろうが、アレな趣味であろうがかわいいかを語り尽くす必要がある。
悪く言えば、801ちゃんは「擬態でも本体でも彼女かわいい」「振り回されもしない人に比べたら、俺は幸せ」というノロケだ。
放課後に涼宮ハルヒによって部室棟まで拉致されて「やれやれだ」とか言ってるキョンとあんまり変わらない。
だけど、「子猫」には801ちゃん的なキャラは出てこない。愛情表現を間引いていて、大切なものを持つこと自体を拒んでいるシーンさえある。
「子猫」にも愛や美意識に取れる箇所はあるが、それがわかることよりも自分のベースにある「世界の見え方」「それを表現するためにやりたいこと」をいかにきっちり表現できるかが大事にしている。
自分の見える世界や、自分が世界に対してどんな思考をしてるかを描くことに徹しているため、愛情表現は入れていない。
でも、だからといって「子猫」が病んでいて救いがない話かというと違う。
なぜなら、愛情は入ってないけれど、主人公はそんな世界で生き続けることを示すように「明日からまた仕事だ」と結ばれているからだ。
アジコさん自身の言葉でも
(ハックル)卑怯者だと罵倒されて悔しくないの?
(小島アジコ)卑怯者でも生きてる方がいいです。
というやりとりがあり、また躁うつ病の僕から言わせてもらうと卑怯者でも生きていること・明日も仕事がある(仕事に行けること)自体がポジティブな描写なので、子猫は鉛色の話ではあるが、小島アジコさんの美意識の中では何の希望もない話ではない。
また、「子猫」を見た有村悠さんは次のようなコメントを残してる
しかしこれを狂気の産物扱いするのは違うだろう。最初のコマから最後のコマまで一貫性があって、表現としても計算されつくしている。マジもんの狂気の産物ってもっと支離滅裂だから>子猫を殺す仕事 – orangestarの雑記 https://t.co/CRocrGkzUH
— 有村悠%4/26佐世保オンリー・世-34 (@y_arim) 2015, 4月 11
ネットで自己をさらけ出すことを「狂気の沙汰」と言う人が多い。
でも、僕のような病んだ人間から見れば、鉛色の世界、擬態をし続けないと生きられない世界の方がずっと辛い。それこそ狂気の沙汰に思える。
だからいざその狂気を描かれた時、その人の世界の見え方に対して歩み寄れないぐらい、他人ごととしてしか情報を消費できないんじゃないのかい?
少なくとも僕はそう思うけどね。
801ちゃんがブーム しすぎてオワコン呼ばわりされたこともあるそうだけど、オワコンと呼ばれる人は始まってるんだからいいじゃないですか!僕なんか始まってるとさえ言われないんですよw
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創作論繋がり。テキスト風味。
「暗く見える世界を見せないように愛情表現をした作品」繋がり。泣きゲー風味。
物語のありかが似てると感じる作品繋がり、正体不明の何かが出てくる作品繋がり。