前にも他人に言われて「うるせえ!」と感じたから、記事にする。
オタクや学問寄りの人に多い傾向として「アレを読んだんですか」「どこまで読んだんですか」と迫る人が多い。
完全な頭ごなしはよくないし、本の価値を否定する気もない。だけど、「本を読めば勝ち」という意味不明なマウントを取りたがる学問系オタクが僕は苦手だ。
人にでかい顔したい人が陥る病としての「本を読め」
前半は実際にあったケースを語りながら進めて行く。
たとえば、あるアニメを1クール・3回見返してるが、原作はまだ読んでる最中の作品があると「そんなことで作品を語らないでください」という輩が僕に来たのだ。
アニメオリジナル展開はほぼなく、忠実に要約されたいいアニメ化であり、何より原作ファンが原作の複雑さゆえにアニメを副教材として整理・説明に使われるほどの位置づけなのに、そのアニメを読んで原作もそこそこ読んでもまだ文句を言われる。
例えば、30分間批評家が語る動画を見て釈然としないと批評したら「批評する批評家の著書、批評してる批評家の本も読んでないのに、批判するな」と全く知らない人に僕が批評されてた。
はじめから丁寧に30分も時間をくれてやったのに「本も読んでないのに」というマウントポジションで見下してくる。
手引書や明確な正解が載っている学問なら本を読む僕だって本は読むべきよ?初めて作る料理の作り方とか、微積分の解き方とかなら読んだほうがいいし、読んだかどうかで確実にその人が話に入ってこられるかどうかもはっきりしてるし、間違えている時にどこが間違ってるかも指摘しやすい。
しかし、アニメや批評、学問でも社会学系など正解と言えるモノがくっきりとは存在しない分野だと作品を見た・読んだからと言って解釈がおなじになるとも限らない。作品であれば感性の問題が出てくるし、批評なら論理性のどこに重点を置くかが問われてくるから、作品を見ろ…と言っても、結局は同じ認識にいたるとも限らない。
ましてや、30分の動画の内容が「アニメやゲームを解釈した人間がそこから見えるオタクがコンテンツ消費する際の批評した書籍をさらに批評する」というもの。
アニメ・ゲームと言ったコンテンツ(正解がない)
を解釈した人間の批評(やっぱり正解ない。あっても筋が通ってるかどうか)
の批評(当然正解がない。議論になるのは、論理性や引用の正しさぐらい)
しかも、10年ぐらい前の書籍をその後に批評する(正解が違うかもしれない)
曖昧なものだ。本を読んだ所で同じ認識にいたると思い込んでるのがおかしくて、どこを重視するかで正解なんか大きく変わってくる。
コンテンツを中心に解釈するなら評論の論理性やレトリックは希薄になるし、レトリック重視ならコンテンツを見る目が弱くなることだってあり得る。
誰が悪い、誰がいいなんてどうでもいい。俺の知らぬところで勝手に言ってろ!
僕が明確にしたいのは「本なんか読んでも同じ正解にたどり着くとは限らない」ということであり、それをやれ「本を読め」と言い放って解決する奴らがなにもわかっちゃいないという話だ。
やつらに対する対策は2つ。1つは相手が自分と対峙すること自体を嫌がっているということ。平たく言えば、こんなところか。
考えろ
自分の頭で考えろ
自分の頭で考えて私と同じ考え方になるべきだ
大抵の人間は批判されると嫌な気分になるか、矛先が自分に来ると怖いからね…特に自意識過剰な人だからね。
もう一個は、どんなバカでも簡単にマウントポジションが取れるから「本を読め」といえば、とりあえず勝てるから言うだけ。研究職の職業病だと言う人もいるが、それなら「話にならん」とか「読んでないくせに」とまで開き直るのはなぜ?
僕に言わせれば、「本を読め、でなければ話にもならない」メソッドは学校の部活動で「先輩を敬え」というのとさほど変わらない。自分よりもヘタクソな先輩がいても「俺は先輩だぞ」といえば勝てるのと同じ。
「本を読んだ」という事実はそいつの解釈力にかかわらず、事実を聞くだけだから基本的に読んだ奴が勝てるし、偉そうに「読んだほうがいいよ」とか言える。
「黙れ」という気持ちしかない。
まず、興味があったとしたら自分で勝手に調べるか、詳しい人に聞きに行く。
次に、興味がなかったり見た作品がつまらなかったとしてなぜそんな時間をかけなきゃならん?
やじうまのような意見でしかないし、野次馬風情の意見(本気で報われてほしいと思って相手に送るアドバイスにしてはあまりにも有り体で弱い)しか言えぬ人の言うことを聞いて何になる?
そもそも、興味のないものに時間をかけるほどヒマじゃない
なんか「100円やるからジュース買うてきて」みたいな感覚で「本を読んだんですか」とおっしゃる人がいるけど…本なんてスラスラ読めないし、スラスラ読んだ人が議論に参加できる程度の大したことのない話ならそこまで偉そうにされてもね~。
みんな忙しいからね~。
まず、オタクでも研究者でもない人は短時間で面白いか、興味があるか、話に参加できるかという自分の基準のほうがずっと大事。
次に、自分に専門分野がある人はそもそも「全部」は消費できない。全部消費しろという人はよっぽど暇で資金があるか、その人の言う「全部」が狭いニッチな趣味な人ぐらいだろう。
有名なのは深夜アニメを何十本と見てる人だが、彼らでも3話でつまらなければ切る。
自分の例で言えば、フリーゲームだが…ゲームをする時間も保管するデータ量も限られてるから、全部はできない。
スクリーンショットと、ゲームの紹介、ゲーム周辺の情報などを見てある程度選抜しなきゃいけないし、それを承知で作ってない人はそもそもダウンロードされないか、ゲームの評判が波及しないからゲームが流行らない。
…とここまで書いたら「ゲームやアニメと本を混同するんじゃない」と怒る人がいたけど、別にこれは論争のために本を読むことでも、アウトドアマニアみたいな人でもいい。ただ、マニアックになればなるほど「全部読め・やれ」というのはどんな趣味でも無理だ。無理だから選別するし、面白いかどうかを判断するちょっとだけの消費を身につけていく。
何か1つでも自分が詳しい分野を持ってる人は全部・元ネタもなんて言えないほど多くの作品から選び出してやらないと流行も定番も抑えられない場所で自分の趣味に忙しい。
最後に、コンテンツを作って当てる人の立場。これは自分のブログのこともあれば、他人に聞いたり、読んだ話もあるが、言いたいことは至極単純。
タイトルや要約は自分のコンテンツやその理解度をそっくりそのまま表すため、いい作品にはタイトルや紹介文がかけるかどうかでおおよその品質はわかってしまう。
フリーゲームはスクリーンショットと説明文しか情報のない所からゲームを選ぶし、ブログもタイトルとサムネイルでおおよそ勝敗が決する。タイトルがぼやけてたり、紹介文を読んでも意図をはかりかねる作品(わざとぼかしたにしても、作者の意図や狙いがなくてそそられない作品)は…だいたい面白くないし、そもそもみんな手を付けたがらない。
さっき30分の映像だけじゃなくて本も…と言われたが、30分は1つの話を語るには決して短い時間ではない。それで魅力が出せないというのだから「甘えるんじゃない!」と言いたい。また、ある程度予習をしてる人のために説明した動画でもなく位置から説明してるのだから「わからないなら本を読め」はおかしい。
文書やゲームやビデオにはタイトルとか裏の冊子、1枚2枚の画像でしか判断されないものなんかいっぱいあり、中でもタイトルで決められるかどうかが大事になる。
偶然かっこいいタイトルを付けることもあるが、そこは自分が中身をきちんと理解しているかどうかがタイトルや要約、冒頭文など「最後まで読むかどうか」の基準にかかってくる。
僕は現実を充実させたいから、そんなにコンテンツに時間かけていられない。
僕は他人とのコミュニケーションよりもそのゲームが泣けたか、楽しかったかという自分への有用性のほうがずっと興味がある。
本当にやらせたい・読ませたいゲームや本があるならセットで一式持ってきて「どや!」とやるぐらいの覚悟とガッツがない人から何も薦められたくないわ。
その意味では富野信者の方がずっと好感が持てる。普段は進めてこないが、一言ふと「ガンダム見ようかな」と言ったら3人・4人がかりでアレがいい、これがいい、見ればこうなるとご高説いただけるからね…。でも、たいていの人はそんなガッツもなく「読みなさいよ。話しにならないよ(はなしする気もないけど)」だし…。
だから、30分も説明させてやったのにつまらなかった人の本を「読め」と言われても、とてもそんな時間はない。僕は忙しいんだ。30分も大して興味のない人が面白いかどうかの品定めに付き合ってやっただけでも深々とお辞儀をしていただきたいものだ。
30分でぼくが面白いと思えなかった人の本。動画を見てもなお「本を読め」と擁護してくる人がいっぱいいるから僕の趣味に合わないだけで、名古屋あたりでは珍味として重宝されているんじゃない?ここも珍味なブログだけど、彼もジャンルの違う珍味だと思うよ?
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自分の発達障害や躁うつ病と向き合うために、心に「うるせえ」を持って生きることにした
「本を読め」「うるせえ!読んでもまた別のを読んだかのイタチごっこだろうが」
100時間かけてクリアしたゲーム。時間かけるなら自分の好きな作品にかけるべし。