「認められたい」と思っているうちは三流です。認めてくれる人との付き合い方を覚えましょう。

 

本を出す度にAmazonのレビューが散々なシロクマ先生が凝りもせず、また本を出すらしい。

内容はシロクマ先生得意の承認欲求の話に、さらに所属欲求の話をくっつけたもの。
この人の本は「承認欲求(お家芸)+○○(今、彼がハマってる新しいネタ)」という構成で本を出していますが、今回もそういう感じです。

ただ、この本のタイトルを見た感想としては

認められたいと思えるうちは、認められない。
仮に認められても、まだまだチャンスを自分で無為にしているからそこを克服していけない人は三流です。

と、言いたくなった。

偉そうなこと言ってるけど、僕も「認められたい」をこじらせてた人間で、それを少しづつ克服する日々。

筆者のように医者になんてなれるほど頭が良くて、数値的にも周囲よりできることを若くして証明できた人間よりも遥かに飢えてたし、飢えた結果こじらせていた。

今回は、「まだまだ認められたい人」に向けて自分なりに「認められたい」を卒業する5つのステップを書いていきたい。

  • ステップ0:「認められたい」と願うほど認められないのはこんな人達
  • ステップ1:小さくてもいいから褒められる分野を作ること
  • ステップ2:褒められ慣れてない人はすぐ調子に乗る
  • ステップ3:褒められるのが当たり前になって、承認してあげる側に回りたいと思い始める。
  • ステップ4:「なんで俺?」と向き合う/運命を受け入れる

 

ステップ0:「認められたい」と願うほど認められないのはこんな人達

ここでは「認められたい」と思う人が形成されるまでを語る。

「認められたいのに、認められない落ちこぼれ」には大きく2種類がいる。

1、隣にデキる人がいるせいで、自分が相対的に落ちこぼれているように感じる
→友達・兄弟に天才がいる
→進学した先や、友達グループのレベルが高い
→親が進学校を出ているせいで、できて当たり前・できないことを怒られる

2、発達障害持ち・家庭の事情で、極端にできない科目・できない日がある
→体育だけできて他が駄目。教養も育ってないせいで同級生や先生に詰られた経験あり
→苦手科目があるせいで、得意科目ができても、親や先生から怒られた経験がある。

「認められたい」なんて思う人はそもそも、自分なりに「認められてもいいんじゃない?」と思うようなことをがんばったか、結果や数字を出したことがある人。
もしくは、「認められたい」の裏返しである「見返したい」相手がいたり、その人に対する負けず嫌いが折れてない人。

逆に全くダメだったり、周囲もダメで自分にも期待されてないと、そもそも「見返したい」という感情をぶつける相手もいない。

…その辺を踏まえた上で言いたい。

ステップ1:小さくてもいいから褒められる分野を作ること

子どものうちに認められるやつの特徴は「なんでもできる」やつ。

できない科目があると親や先生からケチがつく。
もちろん、ケチを付けない親や先生に巡りあえればラッキーだが「認められたい」「見返したい」と思う人はケチをつける大人や同級生に出会ってしまったのだろう…。

完璧でないことを理由に認められなかった人達に言いたい!

「大人に『なんでもできる』ない」し、「大人になれば、『なんでも』はやらなくていい生き方もある」と…。

例えば、大人になった今の自分がしているブログとブログレッスンは

「子どもの時から得意だったことを全部使える分野はなんだろう?」

と考えた結果である。

社会科が得意なこと、
家庭の事情と自分の都合で、転勤族でかつ色んなバイトを経験してきたことで見てきた人間の数が圧倒的に多いこと
関西人でいじられキャラで、人を笑わせたり関心させるネタばっかり考えてたこと

自分の興味や経験、特技が評価が強みに変えられるジャンルはなんだろう…と考えていたら、ブログがハマった。

英語はできない。
古文も漢文もできない。
図形問題に天才的な補助線を引くセンスもない。
そもそも、時間内にたくさんの問題を解く処理能力が低い。
だから受験に失敗したし、就活のSPIは大の苦手で、受験も就活も門前払いで、母親は俺を見下した。

…何もかもができないわけじゃなかったから「いつか見返してやる」「そのために認められたい」と思い続けて、自分にできることを模索してた。

ブログは苦手なことをしなくていい。

英文法よりも、伝わりやすい日本語の方が大事。
国語的に高度で詩的で論理的なことよりも、伝わりやすい構成や内容…読者増を想定したレイアウトが大事。
計算力よりも、欲しいデータや統計がどこにあるかを記憶・予測できること

の方が遥かに大事!!

学校では「それしかできないこと」も、学校を出ちゃうと「それができる」に変わる。

小さい成功体験は自分の強みが発揮できる分野を見つけるところがスタート。
それさえできれば、人から褒められたり、認められるところまでは行ける。

ステップ2:褒められ慣れてない人はすぐ調子に乗る

高校時代は友達向けのメルマガ
大学時代はmixi日記で時事ネタ解説
そして、大学も卒業に近づいたところで、オープンで検索すれば誰でも見れれる「はてなダイアリー」でブログを書き始めた。

mixiでも、はてなでも読まれるものを書けるようになるまで時間はかかったが、とりあえず読まれた。

はてなダイアリー/はてなブログで認知され始めた頃、「認められたい」「見返したい」という気持ちは次の壁に差し掛かった。

…それは「褒められ慣れてないから調子に乗る」という現象。

この現象をわかりやすく解説したのがしくじり先生での亀田興毅さんの講義です。

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どう見ても僕みたいなやつのことです。本当にありがとうございました。

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2012年〜2014年ぐらいの僕は酷い躁うつ病で気分をコントロールできてないこともあって、ネットで褒められるとすぐに調子に乗ってました。

「やった、あの会社の偉い人に褒められた」
「やった、あのメディアにリンクが掲載された」
「やった、あのマンガ家さんに自分のアイコンをマンガにしてもらえた!もっと出してもっと出して!!!」

今でも少しは言うけど、当時は褒められる度にうざったいほどそればっか言った。

熱烈に言われる側に立ったことがないから、とにかく褒められた相手にウザ絡みしたり、褒めてくれたことを根拠に調子こいたり…我ながら酷かったし、酷すぎてその時の僕を知っている人からは未だに遠ざけられてる。

そのことは自分が他人からやられて初めて気づくまで、1〜2年かかった。

ステップ3:褒められるのが当たり前になって、承認してあげる側に回りたいと思い始める。

観客として「いいね!」を押してるやつはただの客だよ?

でも、フォロワー4000人の僕がリツイートして、リツイートした相手のフォロワーが増えたり、ブログでマンガやゲームを紹介して10・20ぐらい売れたり、ダウンロードされたりして、相手に喜ばれるとしたら…。

「あの誰々さんから、コメントがもらえた/いじってもらえた。嬉しい」

って言ってるうちはまだまだ。タイトルで「認められたいと思っているうちは3流」と言ったのは、3年前・4年前の「褒められ慣れてないから、他人の権威を借りてアピールしている自分」がクソだせーし、まだまだその上の段階に行くべきだと思ってるから。

…違うわ。今の僕は「あの誰々さん」になり始めてた。

「あの三沢文也さんから、紹介してもらえた/フォローしてもらえた/コメントがもらえた。」

って言ってもらえるブロガーになり始めたことで、「認められたいと思っているようじゃダメ」と言えるようになった。

…そうなるにあたって2つきっかけがあったから、その話をさせて。

1つは自分の熱狂的なファンにお会いしたこと。

「あの青二才さんですか!?」
「ツイッターフォローしてます!」

とか熱烈に言ってくる相手に、少々疲れてしまってる自分がいることに気づいてしまったこと。

…もちろん、嬉しかったよ?でも、同時に
「それわかったけど、何さ?」
とも思った。

相手だけが自分本位に盛り上がっている人間がこんなにもウザいのかぁ…と、他人に褒められて初めて気づいた。
もう一個はサイバーメガネさん・鈴木さんから靴を買ってもらったこと。

そして、その靴は履きやすくて長持ちするいい靴で
「靴を人にプレゼントできるセンスも、見返りという見返りも与えられない俺に1万円づつ出してプレゼントしてくれる大人ってすげー!!」
と、思ったことがきっかけ。

承認欲求もお金もクレクレ言っているうちは未熟。
与えることができる人間、価値のあるモノを与えられる側こそ、「認められたい」の次のステップ。

お金はないから、自分が見つけたいい作品や、いい記事を褒めるところから僕はやっていった。
そうしたら、自分がいいと思っている相手から褒められることが増えた。

認められるのは当たり前で「認められ続けられるか」「より良い人と深く関わっていけるか」という段階にシフトし始めた。

ステップ4:「なんで俺?」と向き合う/運命を受け入れる

認められるのが当たり前になると、身の丈に合わないほどの相手と出会うのが当たり前になってきた。

そんな大したもんじゃないことは自分が一番良くわかってるだけに「すごそうに見える」ことを理由に会いに来るすごい人達にとにかく謝りたい気持ちでいっぱいになってた。

…いや、サイバーメガネさんだって、鈴木さんだって、身の丈に合ってなかったと思いますよ?

でも、2年前に出会った人の中ではそういう人は圧倒的に少数派だった。

今は、僕よりも劣っている人と出会う機会の方が少なくなり始めている。

…自分よりも優れた人ばっかりに出会っていると「認められたい」どころか、「(そんな大したもんじゃない自分が、不相応に)認められるのが怖い」ように思えてくるんです。

「認められたいは三流」とは「認められる恐怖を知らない人間は三流」という意味もこめてる。

その気持ちがピークに来たのは、出版社の人達に接待される形で飲み会がセットされた時。

その時のぼくは、ほとんど捨て身!

本を出しているブロガーが出る度に「俺が書いてるもののほうがおもしれーじゃねーか!」とか言ってた俺が、だ!
いざ偉い人を前にすると、捨て身で失礼なことを言ったり、なんで呼ばれたかわからない自分自身を卑屈に嗤ってみたり…とにかく態度が悪かった。当たって砕けろ…っていうか、「砕けちゃうだろうからこそ、とにかくぶつかっていけ」と、まともな計算ができないほど気持ちに余裕がなくなってた。

後で考えると、あんなに失礼だったのによく怒られなかったと思うし、よくフォローしてくださったと思う。周りが大人ばっかりで本当に良かった。

暫くの間、覚悟が決めきれず、出版社の人に出会ったチャンスが恐ろしくて恐ろしくてしょうがなかった。

認められるほど身の丈に合わない出会いが来る…。
その度に自分が詐欺を働いているようで申し訳なくなる…。

そう思うことが増えて悩んでた時に、友達から言われた。
偶然が先、理由はあと。意味があるのは偶然の方。
この言葉をもらってから、「チャンスも恋もタイミング!なんで来たかではなく、来たチャンスを全力で受け止めることが大事なんだ!!」と思えるようになった。

…考え方を逆にすると、認めてくれる人がいないのも偶然だし、オーバーに認めてくれる人がいるのも偶然。
そのぐらい不安定な世界を生きてるからしんどいし、不安定だからまぐれ当たりもある。

そう思ったら「認められたい」なんて…三流の思想だよ。

「一流」になったって、認めてもらえない時は認めてもらえないし、三流のままだって認められる時はある。

コンプレックスがきっかけで舞い上がったり、こじらせてる時間がもったいない。

…でも、流石にいきなり「君が認められなかったのは偶然なんだ」って言われて受け止められる人は少ない。

…大多数の人は小さく小さく認められること、自分が苦手なことから逃げるところからやっていって、褒められる回数を増やしていくところから始めたらいいよ。

この本、1ミリも読んでないけど、こんなかんじでよかったのかしら…??

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