…はしごたんが最近、精神疾患や発達障害について批判的な記事を書きまくっている。
その中でも、「これは」と思ったのが、この記事。
注意欠如多動性障害・アスペルガー症候群・自閉症スペクトラムと俺を照らし合わせてみたら、全部当たり前だろと思うことで驚く – heartbreaking.
「誰にでも当てはまる欠点」は障害として扱っちゃいけないのか?
彼女が言うように、発達障害の症状って1つ1つを見ると
「誰にでも当てはまるのでは?」
「このぐらいで障害扱いされるのか?」
と言うものがいくつかある。
でも、これは本人にとっては「治らないこと」が切実でね…。
例えば、僕はADHDの傾向が強くて、子どもの頃から次のようなことがしょっちゅうだった。
・忘れ物が多い(注意欠如)
・ケアレスミスが多い(注意欠如)
・落ち着きがない(多動性)
僕の頃なんか発達障害として扱われなかったから、これが内申点に響いたり、親や先生から目をつけられたりしてすごく大変だった。
しかも、どうやっても自分ではどーにもできないから、そのことですごく自信をなくして凹むことがしばしばあった。
だからこそ、「障害」だと言われて、理解がある人が集まると許し合える環境ができるようになって、すごく助かった。
他にも、僕にはアスペルガー的な特徴も幾つかあり
・嘘やハッタリが苦手だったり、
・会話する時に相手の目を見るのが苦手
・価値観やこだわりが独特で、悪気もなく相手を不愉快にさせたり
は、僕も当てはまるし、この辺のことが原因で理解のない人と喧嘩になることがあった。
これも発達障害同士で喋る時には、目も合わせなくていいし、過激なことも言っていいし、フェイクや詭弁はお互いが苦手だから言わない…そういう空間はすごく楽で助かってる。
逆に、女性と喋る時には(不誠実だとか臆病だとか思われるとすごく面倒くさいから)意図的に目を合わせて喋るのだが…まぁ、これがしんどいのよ…。
本当に頭の悪いバカ女だと、目は合わせない、発言は独特と来ると「なんなんだこいつ」って思って攻撃してくる人がいるから…しんどい。
いや、女にかぎらず、ヤンキー肌の男とか、俗物みたいな男は目を合わせないとそれだけで「弱々しい」とか思うみたいだから、敢えて目を合わせるんだけど…「バカに合わせるの大変だなぁ~」って心の底から思う。
確かに、忘れっぽいことも、人の目を話すのが「誰にでも当てはまる」よ?
でも、「誰にでも当てはまる」から受け入れられるかといったら…それは全くの別問題だからね?
「誰にでも当てはまる欠点」が直せないほど重篤な人にとっては、それを障害として認めてもらうか、そういう人が集まる環境を確保しないとすごく生きづらいからね…?
なんで年配者は発達障害への理解がないのか?
それでも、年配の人達からは
「発達障害なんて言うけど、昔は社会がそういう人も騙し騙し働かせて、騙し騙し乗り切ってきた。だから、大変だとは思うけど、障害と呼ぶには抵抗がある」
と言う人もいる。
…事実、父は発達障害について、自分の同年代の人に説明する時はそういう説明の仕方をした上で「昔からいる変わった人が、最近は障害として認知される様になった」と言う言い方をしている。
これはけっこう正しくて、「日本自閉症協会」ができたのは1989年とかなり最近の話。
奇しくも1989年は僕が生まれた年。医者でも患者の家族でもない父からすると、親になった歳にやっと自閉症を支援する団体ができたわけだ。
しかし、それは患者や当事者には大きな進歩かも知れないが、国や社会から自閉症や発達障害者が認知されるのはもっと時間がかかる。
だから、僕が子供の頃には発達障害なんて概念は教育の現場にはなく、僕も「不思議な子」扱いこそされたが、「精神科に行け」と罵ったのは僕の母だった。
ちなみに、後に「検査を受けたい」と言ったら、母親は自分の子どもが精神科にかかることを思いっきりびびって連れて行かなかったので、自分の親世代(60代以上)にとって「精神科」には差別的なイメージがあることも言及しておきたい。
今70代ぐらいの人には未だに障害者のことを「知恵遅れ」って言う人を見たことがあるし…。
そして、そういう精神疾患のことなんて何も知らない大衆が、病気や障害のことを知るきっかけは事件とか裁判だから、なおさらイメージが悪い。
発達障害の場合は、殺人事件の犯人が精神鑑定の結果、アスペルガーだったのでは?という話が発達障害者支援法ができる数年前に起こっている。
事件が起こったことで文部省が高機能自閉症への支援に注目したとか…。
でも、法律が施行された頃には、僕はもう高校生になってるから、発達障害であることも当時は知らなかったし、支援なんか確立されない。
だから、「個性だと言われ続けたものが障害だった」と気づくのは社会に出て、致命的にしんどくて心が病んで体が動かなくなってからの話。
精神疾患に差別意識がある人達が人事権持ってるうちは、「発達障害」は排除の論理でしか使われない
ここまで読むと、
「発達障害の支援が確立されてきたから、今後は生きやすくなるんだからいいじゃないか」
とか言われそうなんだけど… 発達障害者の苦悩はあと30年は続くだろう。
なぜなら、今の40歳以上の人は発達障害がなんなのか知っても
「昔はこのぐらい個性の範疇であって、障害じゃなかった」
とか、
「ただのクズやないか!」
とか言ってはばからないから…。
そして、前述の通りアホで世俗的な人は目を合わせないとか、忘れっぽい人を思いっきり見下してかかるから、「障害だから理解しよう」とは行かない。
発達障害だから得意なこともあるけど…健常者から見て当たり前なことができない・通じない人は、そもそも特技なんて見てもらえない。
そうなると、文部省が「支援しないといけない枠組み」として、認知したはずの「発達障害」は、民間企業や精神疾患の知識のない庶民は「排除の対象」として、認知する。
障害だろうがなんだろうが、「欠点が治らない」「話が通じない」として排除する。
本人としては先天的なもんだからどうしようもないが…そんなこと関係なく叩かれる。
社会や理解のない世代から排除された結果、「二次障害」としてうつ病などの精神疾患にかかって、国や社会保障の支援を受ける人もいるのですが…、発達障害批判をしていたはしご端はこんな記事も書いている。
例えば障害者手帳2級持ってるうつ病等の、不正を働く人間共をすべてこのネットから抹殺したいとも思っている。 – heartbreaking.
「うつは甘え」の人がもっと攻撃的になると「うつは穀潰し」になるのか…。
いや、うつが酷くて動けない人は国に頼ろうが、企業に頼ろうが、家族に頼ろうが、仕事できないほど病んでれば、穀潰しだと思うよ?
これはもう休んで復帰してもらうか、誰かに頼って生きてもらう以外しょうがない。
でも、その人が切実に悩んでいる「病気・障害」も、関係ない人からすると排除する理由にしかならないのは悲しいね。
国や医療は、苦しい人を支援するためにつけたはずの病名が…生産性ばっかり追求する企業やそれに毒された庶民には「排除すべき新しいラベル」としてしか認識されてない。
悲しい話だ…。
その他人がうつに寛容な人と、寛容じゃない人の差が激しいから「うつや発達障害を知らない人は排除の論理にしか使ってないから注意しようね」と書いた。
優しい人・寛大な人はいますよ?
でも、そうじゃない人は頼るどころか、自分が障害を持った存在・がんばった結果病んでしまったという事実そのものを許してくれないから非常に辛い。