「初心に囚われる」という病

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元ネタのICHIRO-MONDOWでは、イチローは初心を「忘れてはいけないけど、持ち続けてもいけない」と述べている。状況変化に応じた心構えをその都度作り続けていかないと初心に囚われてしまうからだろうか?
 

初心…私自身を生み出し、私自身を制約し続けるもの

「初心を忘れるな」という言葉はよくできている。
「初心を大事にしろ」でも「初心を持ち続けろ」でもないところが、とても乙である。

僕はこの細かい違いに気づくまでに、1つ失敗をして遠回りをしていた。

最近、僕の中で「ブロガーとしてキチッと仕事をできた」と思う記事が1つ書けた。

マンガ「初情事まであと1時間」は最強の恋愛バイブルである!!

僕が考える「価値あるブログ記事三原則」は

記事が炎上せずに、ヒットすること。致命的な批判がつかずに、広く知れ渡っている状態を作ること。

記事をきっかけに、読者が考える、お金を使うなどの実際の行動を起こすこと。実際、紹介した本は売れた。

論理的にわかりやすく、読んだ人を少し賢くすること。文化的知的な好影響を及ぼす記事を書くこと。

この3つができた記事はブロガーが書いた記事として、100点をあげていい記事が書けたと思っていて、とても満足していた。

ただ、その記事に、付き合いの長い友人から、批判があった。

バカの批判や、ネットの知らないやつの批判なら無視できるが、信頼を寄せる人物から100点満点のブログ記事が非難されたから「なにか見落としがあるか?」と丁寧に丁寧に話を聞いた。

Twitterとリアルで3日分ほど議論することになった。*1

結果、僕の中で

彼が正しい。だけど、彼の言うとおりやれば、初心で大事にしていたことが壊れてしまうから、少し考えさせてほしい。

と判断を保留することとなった。

やあ、君…。初心を抱いた15歳の僕。

3日にも及ぶ議論に争点はなんだったのか?
そして、3日の議論の末、正しさを前にして悩んだことはなんだったのか?

その話を少しさせてほしい。

前述した「価値あるブログ記事三原則」にこんな項目を書いた。

論理的にわかりやすく、読んだ人を少し賢くすること。文化的知的な好影響を及ぼす記事を書くこと。

この項目に対して、友人は

より洗練された文章を目指すなら善悪二元論を軸にした構成は、改めた方がいい。何かを褒める時に何かを批判するのをフェアだと思っているようだが、それは違う」

と言っている。

一方僕は

「善悪二元論構造は、頭の悪い人でも知的なモノに参加させるために必要な取っ掛かり。ゾロアスター教や、勧善懲悪系のフィクションの存在を挙げるまでもなく、頭の悪い人は善悪二元論構造があれば、難しい話や長い話を読む事ができる。

善悪二元論という入口を閉ざすのは、バカを切り捨てることになるため、バカが賢くなるチャンスを奪う書き方になる。

世の中の大半はバカなので、洗練も行き過ぎるとついていける人が減って、バカが理解できないところまで洗練すると、いいもの書いても割を食う結果になる

と主張。

これには理由…というか、初心がある。

いや、初心と言うには少々聞こえが良すぎるかもしれない。

というのも、僕はこの8月2日で28歳になった。

その僕の22歳~24歳当時の成功体験や気づき…もっと言えば、受験に失敗した15歳とか18歳の自分自身の能力から逆算して、ついつい悩んでしまった。

「バカは、善悪二元論がないと物事の理解もままならない。善悪二元論で波風が立つことよりもむしろ、善悪二元論を使わないで、何の反応もないことの方が、コンテンツとして危険ではないか!」

「僕はもともと能力が低い人間だから、善悪二元論を使わない文章なんか作ったら、理解に耐えられる僕よりも賢い人が満足する文章でしか戦わないといけなくなって、それは能力が低いと偏差値教育に烙印を押された僕には完全に足かせにしかならない。

善悪二元論から脱却してもっと賢いものを書いている人がいっぱいいるから、そんなのに勝てっこない。」

15歳や18歳の初心の自分を裏切るような気がして、自分の文章を最初に読んでくれたりきっかけを見出してくれた人達を見捨てるようで、危惧して踏み込めずにいた。

その後、別の友達とお茶をする機会があり、この話をした所、

「やりたいようにやればいいのに、考え過ぎている」

「考えすぎた結果、意味がわからないことになってる。」

と言われた。

なるほど…28歳の自分がやりたいこと・できること・目指すことをもっと真剣に考えないと、道は開けないのかもしれない。

15歳や18歳の僕でいようとしたり、その時大事にしてきたモノばかりに制約されていては前に進めないのかもしれない。

15歳で味わった喜びを忘れず、28歳でできることをやりにいこう!

初心ばかりに囚われていると、結果的には「甘え」てしまう。

「手抜きをしている」ということではない。

15歳の僕が満足できる以上のモノを作ろうとしない、
15歳の僕が納得できる以上のモノを想像して目指そうとしない、
15歳の僕が望める以上の願望を28歳の僕が上書きせず我慢している。

ある時期までは必要で、機能していた目標だと思う。
でも、15歳の僕が漠然と描いていたことを、何年もかけて、具現化して、完璧にできるようになった今、初心は1つの役目を終えた。

そもそも、初心には2種類ある。

文章を書く楽しさや、周りの反響が素直に嬉しかった思い出、いいものが書けると読み返してニヤニヤしたあの嬉しさ…これは忘れちゃいけない初心。

自分のパソコンを持ったらブログをやって人気者になりたい、
自分の感情・言いたいこと・居合わせた場所をリアルを知らない人にもわかるように伝えたい、
自分が多くの読者を抱え、慕われ、理解してくれる仲間や何かを他人に与える関係を築きたい。

これは、もっと進歩するために切り離してもいい初心。
その都度その都度やりたいことを上書きして、やりたいこととやりたいことがぶつかってしまった時に、「もうやったからいいや」「もっとやった方がいいことをみつけたから、やめてもいいや」と切り離してもいい初心もある

この2つの初心を混同してはいけない。
常に飽きないために、常に満足しないために、常に未完成な自分と技術と世界を自覚するために、自らを追い込んでいかないといけない。

今や15歳の時の自分が想像もつかなかったほど、自分を追い込む方法を28歳の僕は知ってしまった。15歳の時のレベルに合わせてたら成長が止まってしまう。

「15歳の僕がどう思うか」ばかりを考えて文章を書いてきたが、それは28歳の僕がしたいこと、言いたいことを犠牲にしたり、しない口実にしてただけじゃないか?

本当に、15歳の僕を思うなら、28歳の僕はあえて、君にサヨナラを言ってでも、君が知らない世界を見せられる30歳、40歳を目指して、歩いていくべきなんじゃないか?
それが15歳の僕がわかんなくても 。

例えば、15歳の時の僕は好きな子ができた時どうしていいかわかんなかった。
その時、28歳からわかることを15歳に説明するブログを書くことばかり考えてきた。
15歳の僕が囚われてる偏見や誤解や思い込みを丁寧に1つづつ崩していくことばかり考えてた。

でも、本当に15歳の僕に会いに言った時、言って喜ぶのはどっちなんだろう?
レベルに合わせた恋愛ノウハウの伝授か、結婚の報告と幸せそうな未来か…。 

15歳からできる経済学の勉強や受験の勝ち方で、未来を変えて別の自分になれる「可能性」を教えたほうがいいのか?
それとも、15歳の僕が18歳・22歳・23歳で大失敗して、一時期再起不能だったけど、徐々に新しい幸せを見つけて、今すごく幸せで、「人生は案外なんとかなる」と屈託のない笑顔で言ってやるほうが、いいのだろうか?

どっちもありだと思う。
でも、今の僕は前者にこだわりすぎた。

後者は15歳の僕にはわかんないかもしれないし、下手したら「思春期の焦燥感を理解しない心無い大人だと思われる」とばかり考えてた。

「いつかわかる日が来る」なんて、インテリや年寄りの傲慢や嫌味だと15歳の僕から言われそうな気がして、そこにレベルを合わせた語りしかしてこなかった。

でも、その結果「いつかわかる日が来る」と言えない自分じゃ、ダメなんだ。

「いつかわかる日が来る」と煽るぐらい先のある大人【にも】ならないと。

そのためには、15歳の僕やそのぐらいアホな人がわかんなくても、洗練していく道を選ばないと。

「さようなら15歳の僕、忘れないよ15歳で見つけた僕」

ネット民からポエマーだの酷いポエムだの言われてもいいよ。

僕はもともと15歳の僕みたいな人を助けたくてブログを書いてるんだから。

そして、その「もともと」ではいられなくなった自分を、今すべきことを受け入れるために、「もともとの自分」に挨拶を送っている。

これは誰がなんと言おうと、僕には神聖なこと。

同時に、僕がやりたいし、やれたらいいと願うことだから、まずはこの記事を書いたのです。

アニメの中には自分の現実を切り取ってメタファライズした作品があるけど、僕にとってのノエインってすごくそういう作品。

10年前と行き来できるなら、いじけてる自分をひっぱたきつつ色々教えたいし、当時好きだった人の力になりたいし、幸せな未来を作ってあげたい。

そう考えたら、ノエインって僕の今起こってる現実で、憧れで、理想なんだよ。

「15歳の僕」と言ってるけど、15歳の僕の悩む原因を持つ人も、同じようなこと考えてるやつも、全部「もうひとりの君」…つまり、本当は救いたい過去の僕なんだよ。

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一人でも多くの「もうひとりの君」に会いたくて、この企画をしてます。

「友達がいれば、パソコンとかネットとかいらなくないですか」←まず、その友達がネット経由だから!!

フィクションこそ現実のように感じられたのは、世知辛いオフラインよりも、温かいオンラインに接したから。退屈な国語の授業も知識とコンプレックスを得るには役に立ったけど、本当に信じたのは大学時代に見たアニメだったから。

*1:ちなみに、その時のリアルでの様子は、この記事に書いたので、興味がある人はどうぞ。女性が水銀レバー付き爆発物にしか見えない時がある を参照。

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