最近、自分が陥りがちな失敗を反省しつつ、割り切るために書いておきたいことをかく。
人を認められる謙虚さも、使い方を間違える嫉妬と自己喪失になる
いいと思うこと、好感が持てる人、共感できるメッセージを「すばらしい」と賞賛できるのはとても良いことだ。
それは相手を喜ばせるし、何よりも自分が自分の好きなものに囲まれていることで自分が幸せだと認識できる。
だが、比べてはいけない。
例えば、その人がたまたま売り込んだ先でうまく縁が機能して才能が見出されたこと。
例えば、その人が努力に努力を重ねる環境とか才能とか周囲の理解があったこと。
例えば、その人の持ちあわせた資質や能力が求められていることが自分よりも人から求められ、ニーズと一致していたこと。
例えば、自分の努力が虚しかったり、努力すべき時にその人やそのジャンルを知ることができず、自分の現実は尊敬する人のそれとはまるで別の世界にあること。
その人の作品や知識や人柄を好んでた感情やそれに至るまでの幸運や環境…それらが、自分にはない・足りないと比較して気づいたとしても何もいいことはない。
過去も持ってる才能も変えられない。…いや、変えられたとて尊敬する人の二番煎じになって「なんの救いにもならない自己満足」以外にならない。その人のように報われたり、認められたり、新しい楽しみを発掘していく存在にはなれない。
「憧れは危険思想」と言った人もいる。
だが、私に言わせれば「他人が規格した誰かになろうとすること自体が自己喪失を生じさせる危険な状態」だろう。
確かに、基礎基本は他人を真似すること、自分より優れた誰かから教わること、真似することが「学び」である。
だが、あくまでそれは技能の話。その人がおおよそわかったり、理解できたり、新しい発見がなくなったら学ぶこととはまた違う付き合いを模索すべきだ。
間違ってもその人になろうだとか、その人になれない自分と比べるだとかしちゃいけない。それは「絶対に勝てないルールで、勝手に一人相撲して、勝手に自信を喪失するだけ」だ。勝てもしない他人に嫉妬したり、自分を低く見過ぎるあまり自分の報われなさすべてが世界からの否定に思えるからとてもお勧めできない。
嫉妬と呼ぶ人がいるが、私に言わせれば「被害者意識」である。
被害者意識は認知を歪ませる。人を頭でっかちにしてしまう。人の幸運を祝福できなくなる。
・自分には何もない、あるいは足りない、
・望んだものが手に入らない(誰かに遮られている)
・社会的/階級的に報われてない
という認知は程々にしておかないと、被害者意識が強くなりすぎて自分の基準で見て劣っている人間への見下しや否定、もっと酷いと過度に報われている人を高く見積もるあまり、戦う前から「きっとこの人は自分よりも圧倒的に優れているんだ」勘違いする羽目になる。
…まぁ、自分を見てない人間・自分という基準が機能してない人が「自分に何があるか」なんかそもそも真剣に考えてないから他人に好きだとかすごいと言われたところでそもそもそれを信じてないし、信じないことで被害者意識を正当化しちゃっているんだけどね。
怖いのは自分の持ち味に気づけなくなること
その人になれなかったり、その人が持つ技能を修練することも知ることも叶わなかった自分がいたとして…それで卑屈になるあまり嫉妬や自分の過去を悔いてはいけない最大の理由…それは嫉妬に狂ってしまうことでも、卑屈になりすぎて自分が被害者だと錯覚することでもない。
自分が持っているものの価値に気づいたり、気づこうとしなくなることだ。
ブログの世界・ネットの世界はその典型で、大半の人は大したことは書いてない。人気の人であっても「こんなの誰にだってかけるじゃないか」というものしか案外書いてない。(実際は書けないから人気があるのだが、自分も他人もそこに技量を見いだせないことが多い)
…だが、自分の思ったことを言語化するにせよ、勉強したこと・調べたことを人に説明するにせよ、案外できることじゃない。
そもそもパソコンと向き合って文章を書き続けることができる人だってブログを書く人が思うほど少ない。もっと酷いと書き出すだけの語彙力や言い回しをする知識がない人もいる。
僕の場合、運動ができたわけでも発達は早くて勉強ができたわけでも情緒が安定してたわけでもないから学校では問題児でかつ劣等生だった時期が長かった。
そのくせ、ブログを書く上で後に役立つこととなる「記憶力がいい」「感じたことを的確に言い表す力がある」「作者の意図を読む国語のテストはダメなくせに、日記や加害学習の作文となると先生イチオシの文章力を発揮する」といった内申書には書かれない方向では高い評価を受けることがあった。
…「負け惜しみ乙」と思う人もいるかもしれないが、誰よりも僕がそう思っていたから言わなくていい。
どうせ高校の私学入試に使えない理科・社会が得意であることでは自信が持てない。
日本語のラノベや当時はやってたくっだらない大衆小説は読めても、母親が勧めているハックルベリー・フィンの和訳独特の読みにくい文章がダメという読書能力、あるいは国語のテストで点数が取れない・そもそも授業が面白いと思えないことは僕自身を「国語ができない少年・本を読めない少年」と思い込ませた。
学校の基準で学歴やらその人のモテから就職先まで左右されると聞いても、僕には成績に合った能力や自分に見合った習得法がないのだから、「必要なことができないくせに、必要でないことができる」ことはストレスにすらなった。
当時の自分は発達障害で適性の向き不向きがあったこと、自分の文章がかけること自体が才能として評価される世界のことを知らなかったため、勉強に興味が持てない自分とそれなりに勉強したつもりなのになぜか手際よくテストの点が取れない自分を責めた。
勉強できる生徒も、学歴で人を採用する企業や国やそれに躍らせる親も自分を否定しているようにうつる時期があって、未だに決別しきれていない。
できる人をすごいね言って、自分は自分で「できない分だけ別のことをがんばろう」とか、「あなたにはこれができるんだからそこを愉しめばいい」と言ってくれる人の言葉に耳を傾けていればもっと人生を楽しめていたかもしれない。
いや、最近になって「あの文章は青二才さんの才能」「最近の人に合わせなくてもアレはアレで」と有名無名問わず色んな人から言われるようになってやっと自分の基準にもっと自信を持っていいんだと思えるようになってきた。
他人を尊敬したり、あるいは自分にできないことをやってのける人をすごいと思う謙虚さや素直さは美徳だ。
だが、それと比べることで卑屈になったり、違う長所を探したり伸ばそうとすることを否定する人に合わせても、それは自分にできたこと・その人にできないけど自分にはできる・わかる・伸ばせることを見失うだけだ。
仮に負け惜しみといわれようが、あるいは本当に実際にしていることが負け惜しみだろうが、それはその人の基準でしかない。学校の基準でしかない。ある1つの会社が自分にお金を出さないだけだろうし、自分を振った女が世界中の女の代表ってわけでもない。
それよりは自分が1番を取れる世界を見つけたり、そもそも自分という基準を作ってしまったり、自分に一目置いてお茶したいと思ってる女の子の視線に気づいたりする方がずっと大事なことだ。
あなたの中で、あるいはその基準の中でそうだとしても、それはそれだ。
それに自分がなる必要も慣れっこもない。自分とたまたまあってるかどうかだけ。
もちろんできるかどうかの努力は多少試してみるべきだと思うけど、試してダメだった時に自分を責めたってしょうがないんじゃないかな?
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似たような葛藤をしてる時の話。
アフタースクールという映画で大泉洋演じる教師が放ったセリフだが、残酷だけど結論はそういうことだよね…。