思い詰めてる人は「ジョハリの窓」に立ち帰るのも、よい!

最近、別サイトの運営をやっている関係で、友人2人と一緒に登山に行く機会が増えた。

使用済みさん、登山家になる!? - DLチャンネル みんなで作る二次元情報サイト!
115キロ前後の登山家が爆誕してた…??

この記事書かれている陣馬山〜高尾山を縦走中、時間があったから長時間友人と話していると

「思ったより運動できるじゃん(ちゃんと、登山を続けて成長したじゃん)」
「私たちは下りが苦手なのに、三沢くんは下りでもズッコケないし、むしろ下りの方が早いのはすごい」

と言った感じで、【自分では得意だと思ってないこと】【そこまで価値があると思ってないこと】が評価されることが増えた。

他にも、この友人には何回か
「三沢くんって他人とチャンネルあわせるのうまいよね」
的な話をされています。

ビジネスでは人間関係からっきしのぼくとしては『うーん…』と思いつつも、子どもの頃からチャンネルをあわせるのが難しい変わった子を任される事が多いぼくは『あー…でも、そうかも知れない』と思うこともあった。

ぼくと彼で、そういう話が何度か続いたため
キミはもっと、自分の隠れたいいところに気づきなさい
みたいに言われ、オヤジからも
お前に才能を感じたのは、機械を操作する才能だ。赤ちゃんの時にビデオデッキを何の説明もなく、一人でビデオデッキを操作してアンパンマンを見てた時にすごいと思った。」
「お前はプログラミングができないことを卑下しているが…世の中には、自分で調べてサイト運営したり、技術的改善ができないやつがたくさんいる。物書きでもエンジニアでもないかもしれないけど、それはそれですごい能力なんだぞ
と言われて、キョトンとしていたことがある。

…ぼくの自己評価は
ランカーになれるほどの天才性を持ってるのは社会科科目と、文章力しかない。この2つこそが俺の生命線だ
と思ってたのだが…、近しい人ほど社会科目や文章力を褒めてくれない。
むしろ、近しい人ほど一度もランカーになったことがない運動やWeb系の技術を褒められる。

…そんな違和感を感じてると、中学時代の先生が教えてくれた「ジョハリの窓」という概念を思い出した。

ダメな「ジョハリの窓」の活用例:アレは何もない人間が自分を慰めるためのモノだと思ってた

ジョハリの窓というのは、この1枚の画像を見るとわかる。

これ…ぼくは、ここ数年、心の弱い人が自己分析という名の『慰め』をするためのものだと、割とホンキで思ってた。
「自他ともに認める特技がない人は、自分でいいと思ってること・他人に褒めてもらったところを思い出して、何者にもなれない自分を慰める」
「自他ともに認める開放の窓をつかみ取れたはいいけど、『もっと色んな自分を知ってほしい』と思ってる人は、秘密の窓や盲点の窓を欲しがっている」
みたいな…『自分が何者にもなれない/何者かになれたらすべてを受け入れてほしいと願う』みたいな1つのあるあるみたいなものを形どったものだと…割とホンキで思ってた。

結果として、
「世界史の模試をほぼ独学で偏差値74取ってるんだから、これは客観的に強い開放の窓に入れても恥ずかしくない」
「はてなブログで地道にバズり続けた結果、ぼくの文章を多くの人が読み、コメントを入れたから、これも誰にでもできない特技として、載せても…そうそう否定されないだろう」
という感じで、開放の窓を客観的な評価を勝ち取ったモノを入れた。
特に、中学時代に社会科の模試で1200人中59位、高校世界史の模試で偏差値74、公民も政治経済は勉強したことがなくて授業中も内職した上でそこそこの成績を取ってたぼくは「社会科だけなら旧帝早慶と渡り合える天才/むしろ、旧帝早慶につながる英才教育受けて俺にも勝てないやつが普通にいるんだから、独学でも食い込んだ俺は天才だ」とけっこう本気で思ってた。(だから、社会科が絡むと人が変わったように「俺が納得しないと意見を曲げない」というところさえあった)

 

しかし、他の窓は…

「うーん、ランカーになれなかったし」
「これはたしかに得意ではあるけど、野球を30年見てて、詳しい人なんか他にいるから…ぼくが詳しいというのは他の野球ファンに失礼だな」
「確かに面白いマンガを探してくる能力はあるけど…こんなの出版社の人が最強に決まってるじゃん。完成品を見てアレが売れる、コレが売れないなんて言ってるだけのクソオタクしぐさを『特技』に書いたら、出版社と作家に失礼だ。」

と言った感じで、とるに足らないことのように思ってしまった。

…でも、これ「正しい使い方じゃない」どころか「ランカーになれないとクソ」とか言い出してたら、たいていの人は心が病むので…絶対にやめましょう。

 

正しい使い方をすると、ぼくが「意外と銀の匙の八軒くんに近いところ」を評価されていることに気づく

銀の匙という、荒川弘の書いたマンガがあります。
これは、「札幌育ちで、受験に失敗した八軒くんが、農業高校に進学して成長する物語」なのですが…八軒くん、つらい受験勉強をしたから、まんべんなく勉強ができる基礎学力があるんですね。

しかし、農業高校のクラスメイトは、みんな自分の得意分野を持っていて、「全科目2位」というすごいけど本人的にはスッキリしない結果に落ち着くんですね。
それが本人には自己肯定感の低さにつながるのですが…
「何でもまんべんなくできて、いいやつで、苦労して勉強して覚えたから覚えるのも教えるのもうまい!」
から、農業高校で頭角を現して、自信もつけていく。…というマンガです。(めっちゃ面白いからぜひ読んでね)

都会やニュータウンで育った子には、受験や学内成績では振るわなかったけど、「やってきた努力があるから、地域によってはすごくレベルが高い」という子が…少なからずいるんですね

私自身、高校に進学してから
「え?静かに50分間座って勉強できない子がこんなにいるの?」
「ここは小学校ですか?」
という経験をして、自分の中学校がレベル高かったことを再確認しました。
転校して2つ高校を渡り歩いてるんですが…両方ともそんなかんじだったから、本当にびっくりしました。

 

ぼくの場合、ニュータウン育ちに加えて、小学校の間に少年野球に取り組んだのが兵庫県だったことが…実はけっこうな財産だったりします。

そもそも、週1,2回暑い中野球をやって、疲れ果てるまで動いて基礎体力をつけてる時点で、控え選手だったぼくでさえ、普通の人よりは体力がついて、持久走だけは150人中18位でランカーになったことがあります。
加えて、兵庫県は長らく阪神阪急という2球団があったため、野球人口が多く、教えてる野球のレベルも高いため、ヘタなプロ野球選手よりも一部のプレイへの理解度が高くて、「こんな走塁守備してたら、監督から怒号が飛ぶ」「あの送りバントは基本がなってない」とか時々言います。

ウソみたいな話なんですけど…本当なんです。
人の能力って、意外と試験やランキング、その立ちふるまいで決めきれなくてです。
一度でもちゃんと努力した人が後から評価されたり、基礎が弱くても腐らずに続けた人がある日プロという「ランカー」になったりということはあります。(甲子園出てないやつ、控え選手だったやつがプロになることは普通にありますし)

だから、「ジョハリの窓」は必要なんですね。
自分がランカーを取れる分野ではなく、器用貧乏になんでもできるところだったり、能力ですらなく「いいやつ」なことだったり…何が評価されるかは人に聞いてみないとわからないものです。

 

そもそも、社会って「ランカー」だけではできてないわけで…

いや、学歴フィルターも存在するし、試験もランキングもあるよ?
でも、そういうモノに食い込めないから人生が終わるわけじゃない。

むしろ、「切り替える」ことが大事なんですね。
大学受験をやり直すのはカネがかかるし、別れた恋人は帰ってこないから…「切り替えること」が生きていく上でとっても大事だったりします。

 

別にランカーになれなくたって、
ゲームを楽しんで、動画をあげられる人でもいいし、
売れるマンガ描けなくても、スポットでイラストのお仕事を請けたり、面白いマンガをブログやSNSで紹介できる人でも需要はあるんです。

「そんなの誰にでもできるじゃん?」
「ランカーはランキングの中にしかいないけど、そこから降りたら代わりなんていくらでも効くじゃん?」
みたいに思うかもしれないけど…逆に全部の仕事をランカーがやる必要もないんです。

そもそも、ランカーって基本的に理解されないんですよ。
ニュースに出てくる官僚や医者なんて、みんなランカーの中のランカーだけど叩かれまくってるし、
eスポーツは高度なプレーを理解されず、逆にスポーツプロは上から見てるだけのやつに好き勝手言われて…すごい収入を得られるかもしれないけど、ランカーはめっちゃ孤独です。

だから、「ランカーになったことあるモノだけが俺の長所なんだ」とか考え出すと…フィットできるチャンスを逃す可能性も出てくるんです。

確かに、ずっと代わりが効かず必要とされて、自己肯定感も満たされるのはランカーかボス猿になることです。

でも、人と話してみて思うのは、
「アレ?代わりが聞く仕事でも、別にその都度切り替えて続けてばいいのでは?」
「むしろ、ランカーになることよりも、努力は転用可能で、表面的には切り替えながらでも、基礎や長所を活かして、何度でもフィットできるようにがんばり続けるほうが重要なのでは??
ということの方が大事なのかもしれません。

 

あ、そうだ。
ぼく、「ジョハリの窓」を始めてみた時に、1つわからないことがあったんです。

自分も他人もわからない自己「未知の窓」って、なんだろう?どうやって開けるんだろう?
これは中学時代から謎だったのですが…こういう話を友人たちとしていて、やっと気づきました。

今の自分にはない新しいことをした時に開ける「未来」なんです。

なんの取り柄もない人間はいないとは思いますよ?
でも、取り柄が少ない・使い物にならないと感じているなら、挑戦や今の自分にはない「未知の扉」を開けてしまうのは1つの手かもしれません。

いや、むしろ「ジョハリの窓」とは「多くの人には未来に向かってチャレンジする権利がある。今の自己を分析するだけでなく、未来には自分の知らない自己が待っている」ということを教えてくれるフレームワークなのかもしれない。

 

 

こんなこと悶々と考えてる暇があったら、山いけ山!!

使用済みさん、登山家になる!? - DLチャンネル みんなで作る二次元情報サイト!
115キロ前後の登山家が爆誕してた…??
タイトルとURLをコピーしました